01-弥生要点和问题
『第3課―弥生文化』のまとめ
弥生時代
紀元前3世紀ごろから3世紀ごろまでの500~600年間。
大陸から米づくりの技術が伝わる。
静岡の登呂遺跡????たて穴住居?高床式倉庫?石ぼうちょう、木製農具。
佐賀県の吉野ケ里遺跡。
弥生土器、青銅器、鉄器、銅鐸。
社会の変化→定住生活、貧富の差、身分の差。
「むら」から「くに」へ。
力のあるむらのかしらは、豪族となって小さなくにを支配した?
57奴国王が中国(後漢)に使いを送り、中国の光武帝が金印を授ける?
107倭の国から使者を後漢に送り、交わりを始める?
150このころ倭の国に大乱が起こる?
239邪馬台国の卑弥呼が中国(魏)に使いを送る?邪馬台国は30余国を支配。
■弥生時代
●弥生時代□紀元前3世紀~紀元3世紀の約600年間の時代?
□北九州から米づくりが始まり?弥生土器?金属器を使用し
た?
●弥生土器□縄文土器よりうすく、赤かっ色をした土器?
□高温で焼かれたため、固い?
□もようがない、または簡単な幾何学的なもようがある。
●米づくり
の始まり□2300年ほど前の紀元前300年ごろ(もっと早い時期だったとする説が強まっている)、中国の南部?中部から朝鮮半島を経て北九州に伝わった?
●登呂遺跡□静岡県にある弥生時代の代表的な遺跡?
□竪穴住居?高床式倉庫などの集落あとで、水田?あぜ道?
水路?木製農具などが発見された?
●石包丁□稲の穂をつみとるための石器。長さ15cmくらい。
●青銅器□弥生時代に、鉄器とほぼ同時に大陸から伝わった?
□青銅器は?おもに祭りの道具として使われ、銅剣?銅ほこ?
銅鏡?銅たくなどがつくられた。
●鉄器□木製農具をつくる工具として使われ、弥生時代後期には鉄
の刃先をつけたくわやすきがつくられた。
□また、戦いのための武器にも使用され始めた?
●木製農具□鉄器は貴重品だったため、多くの人は木製のくわやすきで
土地を耕し、木製のきねなどで脱穀した?
□田では?しずまないように田下駄を使用した?
●銅たく□つりがね型の青銅器?高さは、10cm~1m。
□表面に狩り?もみつき?家などの絵が描かれているものが
あるが、何に使われたものかよくわかっていない。
●弥生時代の社会□稲作が進むと?くらしが安定し、むらの人口は増えたが?た
くわえの多い尐ないによって貧富の差や身分の別があら
われた。
□むらには、農作業を指図する指導者(支配者)があらわれ
た。
●板付遺跡□福岡県にある?縄文時代後期~弥生時代初期の遺跡?
□日本最古の米づくりの遺跡で?石包丁やもみなどが出土し
た?
●唐古遺跡□奈良県にある?弥生時代の遺跡?
●むらからくにへ□米づくりが広がると?日本列島の各地に大きなむらができ
てきた。むらとむらは、土地や用水をめぐって争い?力の
強いむらは力の弱いむらをしたがえていった。
□大きなむらは、やがて小さなくににまとまっていった。力
のあるむらのかしらは、豪族となってくにを支配した?
●金印□中国の歴史書『後漢書』に、57年?倭の奴国が使者を送っ
てきたので、中国(後漢)の皇帝が金印をさずけたことが
書かれている?
□江戸時代に志賀島(福岡県)で発見され?「漢委奴国王」
と刻まれている?
●邪馬台国□中国の歴史書『魏志倭人伝』に、3世紀ごろ、倭から30
の国が中国に使者を送ってきていること、そのなかに卑弥
呼という女王が治めている邪馬台国があって、30ほどのく
にをしたがえていたことが書かれている?
□身分の差があり?どれい(生口?奴婢)がいて、租税のし
くみや市場もあった。
□邪馬台国の位置については、北九州説と畿内説がある?
●卑弥呼□239年?中国の魏に使いを送り?皇帝から「親魏倭王」の称
号と、金印、銅鏡などをあたえられた。
□うらないやまじない(呪術)で政治を行った?
●吉野ケ里遺跡□佐賀県にある弥生時代の遺跡?この地域の小さなくにの中
心だったと考えられている?
□周りを大きな堀で囲み?多くの竪穴住居?高床式倉庫や墓
地がある。物見やぐらで見張りをした?
●『漢書』地理志□中国の前漢の歴史書で、紀元前1世紀ごろ、日本(倭)は
100余りのくにに分かれていたことが書かれている?
●中国の動き□前漢(紀元前202年)?後漢(25年)?三国時代(220
年~。魏?呉?蜀)