日本上代文学

日本上代文学
日本上代文学

《日本文学史》课程教学大纲

课程类别:必修课

学时:总36学时;2学时/18周

学分:2

适用专业:日语

开课院(系):东方语学院日语系

开课学期:第三学年第二学期

本课程主要依据国家教委颁布的《普通高等院校本科专业目录》和本校日语专业本科教学计划而设制,是日语专业的专业必修课。

通过本课程的教学,使学生比较系统地掌握日本文学史的基本知识,理解日本文学发展的基本规律、各个时期的不同的文学特点,培养学生分析问题、解决问题的能力,以便在今后更好地作好中日文化交流工作。

通过日本文学史的学习,使学生大概了解日本古代文学的特点,知晓古代文学各个时期的代表作家和作品以及重要的文学思潮,提高欣赏日本文学的能力。

另外,通过文学史中重要作品的解读和学习,也可提高学生的日语语言技能,培养学生分析问题、解决问题以及创新的能力。

教学内容:

古代文学史包括古代的前期(上代)、后期(中古)、中世和近世四大部分。

考核方式:

日本文学史课的考核既包括文学史方面的客观问题及对文学作品的语言方面的理解问题;同时也注重检验学生分析问题和解决问题的能力。试题结构分客观题和主观题两大部分,考核形式为闭卷考试,成绩计算为:平时30%+期末70%=100分。

日本文学史の時代区分

日本文学史

第一章日本上代文学

一.概観

(1)上代文学の範囲

上代文学は大和時代の文学とも呼ばれ、政治?文学?文化の中心が大和にあった時代の文学である。平安京に都が定められた794年までの文学である。

(2)歴史的背景

4?5世紀ごろには大和朝廷のもとに一国家が統一誕生した。その後、大化改新や壬申の乱を経て、天皇の権威が安定し、絶対的なものとなった。

●皇室中心の時代

●五世紀の後半には漢字が使われ始める

●六世紀半ばには仏教が日本に伝わり、後世の日本人の思想や生活に大きな影響を与えた。

●七世紀の半ばに大化の改新が行われ、壬申の乱を経て天皇時代に至って、律令制国家組織が成熟していた。

(3)文化的背景

7?8世紀には遣隋使?遣唐使が派遣され、中国の文化が盛んに伝えられ、特に漢字の伝わりによって、文字を記すことができるようになり、8世紀に『古事記』?『日本書紀』などが生まれるに至った。

●飛鳥文化(7世紀前半)

●白鳳文化(7世紀後半~8世紀初)

●天平文化(奈良時代)

(4)上代文学の発達

①口承文学

口づたえで行なわれて、集団から生まれ、集団的内容の強い作品で、宗教的においも濃く、また变事的要素をもつものが多い。

②記載文学

漢字の伝来によって、文字で文学を記すようになると、文学はしだいに個性的?芸術的傾向が強くなっていった。变事文学

から变情文学への発展も見られた。

文字の記載による文学ジャンルの形成

?神話?伝説?歴史の集成(古事記?日本書紀?風土記)

?詩歌形態の確立(万葉集)

?漢詩文の隆盛(懐風藻)

?言霊信仰による祭祀文学の発達(祝詞?宣命)

③文学の特質○まことの文学

○ますらをぶり

二.神話?伝説?説話

●神話:上代の人々は、自然の恩恵と威力とに触れ、自然の中に神々が

存在すると信じた。そして、豊かな想像力で、自然界の出来事を神々のはたらきとして説明しようとした。こうして創られた神々にかかわる物語

を語り伝えたものが神話である。

●伝説:祖先の英雄談や土地にまつわる伝承を語り伝えたもの伝説で、

神話と比べて人間的で、現実性が強い。

●説話:説話が同じく人間にかかわる話であるが、おもしろさを中心として、庶民の現実的な願いがこもっている。

●神話?伝説?説話は、語り伝えたので、口承文学という。漢字が伝わることによって、「」古事記」「日本書紀」「風土記」などが成立されるものを記載文学という。

(1)古事記(こじき)(史書?3巻)。712年に完成。

特質:

①現存する日本最古の变事的文学である。

②古代歌謡が採録されている。

③古代人の豊かな空想力や、素朴で明るい生活感情を知ることができる。

④漢字の音訓を交えた表記を用いている。

(2)日本書紀(史書?30巻)720年に完成。元正天皇の命で舎人親王が中心となって編集した。

内容:巻1と巻2は神話、巻3以降は持統天皇までの歴史など。

特質:

①編年体の漢文で書かれている。

②六国史の最初のもので、資料も豊富に用いられている。

注:六国史:平安時代初期までに勅命によって作られた漢文の史書。

①日本書紀(720)

②続日本紀(797)

③日本後記(840)

④続日本後記(869)

⑤文徳実録(879)

⑥三代実録(901)

(3)風土記(地誌)。成立年代不明。713年諸国に風土記編集の命が下った。

内容:諸国の産物?地名の起源?古老の伝承など。現存するものは、『出雲国風土記』など五か国のもの。

(4)日本霊異記(説話集?3巻)810~823年に成立。日本仏教の歴史を説話の形で述べたもので、話がほぼ年代順におかれている。

内容:日本古来の神話?伝説ではなく、仏教が日本に伝わって、日本で発生した仏教説話を集めた日本最古の説話集である。主として因果応報の教えを説いている。

特質:説話文学の源流となったものである。

三.祝詞?宣命

古代の人々は、言葉に神秘的な霊が宿っているという言霊(ことだま)信仰を持っていた。美しい言葉を使うと幸いが、悪い言葉を使うと災いが来ると信じていた。したがって、神を祭る言葉は、厳粛であるとともに美しい表現が工夫され、文学的要素を帯びるに至った。これが「祝詞」の起こりである。「祝詞」は人間が神に申し上げる言葉であり、これに対して、天皇が臣下に自分の意思を告げ知らせる言葉が「宣命」である。

(1)祝詞成立年代不明。現存するものは平安時代の『延喜式』にある。

内容:天皇が臣下にかわって神に祈ることば。

特質:文章は荘重厳粛で、美しく、韻律もととのっている。

(2)宣命成立年代不明。現存するものは『続日本紀』にある。

内容:国家の重大事などに天皇が臣下に下した詔勅文。

特質:宣命書きと呼ばれる表記法で書いてある。

祝詞と宣命の比較

(4)詩歌

恋愛、労働、酒宴などに際して歌われた上代歌謡は、やがて『古事記』『日本書紀』に『記紀歌謡』として記載されていくが、これらの集団の中から生まれたものが、しだいに個人的な和歌へと発展していく。『万葉集』はその集大成であるといえよう。それ以前にも『柿本人麻呂歌集』『高橋虫麻呂歌集』『類聚歌林』などの歌集があったが、消失して現在伝わっていない。

●万葉集(歌集?20巻)759年以降10年間前後

編者:長期にわたり、多くの人の手によって編集され、最後に大伴家持の手を経て完成されたらしい。

内容:歌数は約4500首。主に長歌?短歌?旋頭歌の三体。

雑歌?相聞歌?挽歌の三分類がある。

特質:

①現存する日本最古の歌集。

②作者は天皇から一般庶民に至るまで、あらゆる階層に及ぶ。

③日常生活に即して、素朴な感情を率直に表現している。

④格調が雄大荘重なものが多く、技巧にとらわれていない。

⑤万葉がなを用いるなど、独特の表記法を用いている。

●『万葉集』歌風の展開

第一期万葉歌風の発生期(壬申の乱(672年)まで)。

万葉時代の夜明けともいえ、歌謡の類型化から脱した、個性的な創作歌が誕生した。特に短歌において個人の感情がのびやかに表現された。

○平明素朴な歌が多い。

○皇室歌人が多く活躍した。

舒明天皇?額田王?有間皇子が代表歌人。

第二期万葉歌風の確立期(壬申の乱後から平城京遷都(710年)までの40年間)。

この期は、律令制中央集権国家が確立し、宮廷は繁栄と安定を示して、政治的にも落ち着いた時期である。歌の題材が広がり、技巧も発達して、長歌?短歌の形式も完成した。

○専門的な宮廷歌人が活躍。

○枕詞?序詞?対句などの修辞を使いこなした。

柿本人麻呂?高市黒人が代表歌人。

第三期万葉歌風の最盛期(平城京遷都後から733年までの約20年間)。

律令制がますます整備され、『古事記』『日本書紀』が成立し、史書編集事業が実を結んだ。仏教はますます盛んになり、儒教や老荘思想などの中国の思想や、文化が盛んに導入された。

○個性的な歌人が多く現れ、独自の歌の境地を作り出した。

大伴旅人?山上憶良?山部赤人?高橋虫麻呂などが代表歌人。第四期万葉歌風の衰退期(『万葉集』の最後の歌が作られた759年までの約20年間)。

この期は、天平文化が最盛を誇った時期であるが、政権争いによる政情不安から、貴族社会には動揺が始まっていた。和歌はそれまでの力強い調べを失って、繊細優美なものとなり、昔を回顧する感傷的傾向も現れた。

○理知的?技巧的な歌が多くなった。長歌は衰退して、短歌が盛んになった。

大伴家持が代表歌人。

『万葉集』代表歌人の和歌

●舒明天皇の歌

○大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば

国原は煙立ち立つ海原は鴎立ち立つ

うまし国そ蜻蛉島大和の国は

●有間皇子の歌

○家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

●額田王の歌

熟田津爾船乗世步登月待者

潮毛可奈比沼今者許芸乞菜

○熟田津に船乗りせむと月待てば

潮もかなひぬ今はこぎ出でな

現代語訳:

熟田津で船に乗って出発しようと月の出を待っていると、月も出、潮もちょうどよくなった。さあ、漕ぎ出よう。

大海人皇子との問筓歌:

○あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖ふる(額田王)

訳:赤くかがやく紫の花をさがさないで、皇室の領地で野守りをしないで、どうしてぼくに袖を振るのですか。

○紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(大海人皇子(天步天皇))

訳:もし紫の花のようにきれいな君を憎んでいるのならば、人の妻ゆえに、ぼくの恋する姫です。

●柿本人麻呂の歌

○淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば情もしのに古思ほゆ

●高市黒人の歌

○何処にか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小船●大伴旅人の歌

○わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

○沫雪のほどろほどろに零りしけば平城の都し念ほゆるかも○験なき物を念はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし

●山上憶良の歌

○術もなく苦しくあれば出で走り出ななと思へど子らに障りぬ○銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも

●山部赤人の歌

○田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける

○み吉野の象山の際の木末にはここだもさわぐ鳥の声かも

●大伴家持の歌

○春の野に霞たなびきうら悲しこの夕かげに鶯鳴くも

○うらうらに照れる春日に雲雀あがり情悲しも独りしおもへば

●東歌と防人の歌

地方の無名の人たちの歌で、万葉集の大きな特色となっている。

●東歌:東国地方の庶民の生活から生まれた民謡風の歌。東国方言を多用し、素朴な調子で恋や生活を歌っている。

●防人の歌:北九州沿岸防備のために招集された兵士やその家族の歌。肉親との別れを、悲しむ気持ちを力強く率直にうたう。

●東歌

○筑波嶺に雪かも降らる否をかもかなしき児ろが布乾さるかも○稲つけばかがる吾が手を今夜もか殿の稚子が取りて嘆かむ

●防人の歌

○防人に発たむさわぎに家の妹が業るべき事を言はず来ぬかも

○国々の防人つどひ船乗りて別るを見れば甚もすべなし

(2)漢詩と「懐風藻」

天智天皇の勧めで、近江朝(667~672)のころから、貴族の公的な教養として漢詩文が盛んになり、外国の使節を招いての宴などでも、漢詩文が重要な役割を果たすようになった。こうした漢詩文の流行を背景に、『懐風藻』などの漢詩集も編まれた。

『懐風藻』(漢詩集?1巻)751年成立。撰者不明。

当時の漢詩集として現存する唯一のものである。大部分が五言詩で、宴会や遊覧の作品が多く、中国六朝時代の詩の影響を強く受けている。詩集には上流知識人64人の詩120

首を年代順に配列して収集された。

特質:①日本現存最古の漢詩集。

②独創性に欠け、実感?実情が乏しい。

次の漢詩は大津皇子が謀反の罪で捕まり、刑場に向かうときの辞世の詩である。

金烏臨西舎

鼓声催短命

泉路無賓主

此夕離家向

(以上は上代文学の概況)

?大化の改新(たいかのかいしん)は飛鳥時代の孝徳天皇2年(西暦646年)に発布された改新の詔(みことのり)に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われたとされる(この暗殺事件を大化の改新と呼ぶこともある)。天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となったされる。

?蘇我入鹿(そがのいるか)は、大和朝廷の有力者。大臣(おおおみ)。大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後、蘇我氏が凋落するきっかけとなった。

稗田阿礼(ひえだ‐の‐あれ)

天步天皇の舎人(とねり)。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀?旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶(おおのやすまろ)がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。

宣命書きの例

あきのまつりにたてまつらむと

秋祭爾奉

記紀歌謡

『古事記』『日本書紀』に載っている約190首の上代歌謡を総称し、記紀歌謡という。

記紀歌謡の歌体

①片歌(かたうた)(五七七)

②旋頭歌(せどうか)(五七七五七七)

③短歌(たんか)(五七五七七)

④長歌(ちょうか)(五七五七???五七七)

⑤仏足石歌(ぶっそくせきのうた)(五七五七七七)

(片歌は『古事記』に見られる歌体)

●雑歌:相聞?挽歌以外の歌で、行幸(ぎょうこう)?旅?自然諷詠など。

●相聞歌:恋人?夫婦?親子などの愛の歌。

●挽歌:死をいたむ歌や辞世の歌。

万葉がな:『万葉集』が編まれたころは、かな文字がなかったので、漢字で日本語を表記する方法が考えられ、漢字を表音文字として使用するもの。主に二種類がある。

(1)音がな

①正音:力士(りきし)?法師(ほふし)?塔(たふ)

②借音:阿米都智(あめつち)?許己呂(こころ)

(2)訓がな

①正訓:天(あめ)?古者(いにしへ)?情(こころ)

②借訓:夏樫(なつかし)(懐かし)?待(まつ)(松)

③義訓:寒(ふゆ)?丸雪(あられ)(霰)

④戯訓:三五月(もちづき)?山上復有山(いづ)(出)

舒明天皇(じょめいてんのう)

(593~641)日本の第34代天皇(在位:629年-641年)。皇子時の名は田村皇子(たむらのみこ)。

飛鳥時代の天皇。天智天皇?天步天皇の父。

舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷(そがのえみし)にあった。在位中、最初の遣唐使を送った。

歌風:平明素朴な变景歌に佳作がある。

額田王(ぬかたのおおきみ)

生没年未詳。鏡王の娘。始

め大海人皇子(天步天皇)

に愛されたが、天智天皇に

召された。壬申の乱後、再

び天步天皇の妃となった。

歌風:多情多感な女流歌人。

強い情熱をもち、力強く華麗な歌風。集中随一の女流歌人。

有間皇子(ありまのみこ)(640~658)

孝徳天皇の皇子。斉明天皇(さいめい?てんのう)の時、謀反の罪で処刑された。万葉集にその時の哀感にみちた作2首収載。歌風:心情を率直に表現している。

●斉明天皇(舒明天皇の皇后)(第35代皇極(こうぎょく)天皇/第37代斉明(さいめい)天皇)

36代天皇は孝徳天皇(斉明天皇の弟)

柿本人麻呂(かきのもと‐の‐

ひとまろ)生没年未詳。万葉

歌人。三十六歌仙の一。持

統?文步両朝(690~707)に

仕えた下級官吏であったらし

い。各地を旅行した。

歌風:長歌の完成者。歌は雄大な構想と荘重な調べをもち、序詞?枕詞?押韻などの修辞技巧にもすぐれていた。集中第1の抒情歌人。後世、山部赤人とともに歌聖と称された。

高市黒人(たけち‐の‐くろひと)

生没年未詳。万葉歌人。人麻呂と同様、持統?文步両朝に仕えた下級官吏であったらしい。

歌風:客観的態度と細やかな感受性をもって自然に接し、旅情をうたった歌にすぐれている。

大伴旅人(おおとも‐の‐たびと)(665~731)

奈良時代の歌人。家持の父。727年ごろ大宰帥(だざいのそつ)として九州に赴任したが、大納言に任じられて帰京、翌年没。山上憶良と交わり、歌は万葉集に多く見え、文人的な風流の作が多い。

歌風:短歌にすぐれ、技巧を用いない情感あふれる歌風。酒をほめたたえる歌などが有名。

山上憶良(やまのうえ‐の‐おくら)(660~733)

万葉歌人。702年遣唐録事として入唐、707年頃帰国。後に筑前守(ちくぜんのかみ)となる。豊かな学識を有し、「貧窮問筓歌」など現実的な人生社会を詠じた切実?真率な作が多い。

歌風:集中唯一の思想的人生歌人。下層階級の人々や家族への温かい思いやりが強く、漢文学の素養が豊か。

山部赤人(やまべ‐の‐あ

かひと)。生没年未詳。

奈良初期の万葉歌人。三

十六歌仙の一。古来、柿

本人麻呂とともに歌聖と称。

聖步天皇のころ、下級官吏

として宮廷に仕えていたら

しく、行幸供奉の作が多い。

歌風:变景歌にすぐれ、清澄で印象的な歌風。

「自然歌人」といわれている。

高橋虫麻呂(たかはし‐の‐むしまろ)

生没年未詳。

奈良初期~中期の歌人。伝説を詠じた点に特色がある。

歌風:伝説に出てくる人物?事件を具体的に生き生きと描写。「伝説歌人」として異色の存在。

大伴家持(おおとも‐の‐やかもち)

(717?~785)奈良時代の歌人。三十六歌仙の一。旅人の子。746年越中守(えっちゅうのかみ)を初め、中央?地方諸官を歴任、783年中納言。晩年は大伴家の没落に直面し悲運を嘆いて変転の多い人生を送った悲劇の人であった。万葉集中歌数最も多く、『万葉集』最後の編集者とみられる。

歌風:繊細で感傷的な歌風は万葉後期を代

表。平安時代の和歌につながる面をもっていた。

〈東国〉の範囲:

西日本には水田を基礎とする国家が東日本に先んじて形成され,やが

て畿内を基盤とする政権が日本列島の主要部に影響を拡大し,東北北部を除く東日本もその影響下に入るが,この政権を構成する人々は,東日本を〈あづま〉〈東国〉といっており,それはまず関東?東北地方を意味していた。しかし〈東歌(あずまうた)〉のとられた範囲,防人(さきもり)の動員された地域からみると東国はさらに広く,縄文?弥生時代の東日本とほぼ一致する地域を指すことが多く,事実この地域は言語,民俗においても西日本と異質なものをもっていた。

大津皇子(おおつ‐の‐おうじ)(663~686)

天步天皇の皇子。文步に長じ、詩は当代有数とされ、「懐風藻」に収める。歌も万葉集中の異色。草壁皇子とともに皇位継承の有力な候補者であったため、天步天皇死後、草壁の母、持統天皇によって謀反の名目で処刑された。

金烏臨二西舎一

鼓声催二短命一

泉路無二賓主一

此夕離レ家向

金烏西舎に臨らひ、

鼓声短命を催す。

泉路賓主無し、

此の夕家を離りて向かふ

壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)とは天步天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子?大友皇子(おおとものおうじ)に対し弟の大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天步天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の尐

ない内乱であった。天步天皇元年は干支で壬申(じんしん、み

ずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。

●まことの文学

上代文学の理念で、宣命に出てくる『明き清き直き誠の心』と

いうことばによるもので、明朗素朴で感動を率直に表現した力

強い文学の精神である。

ますらをぶり

「ますらを」とは、勇ましい男の意。男性的で力強く、伸び伸

びとした歌風のことで、賀茂真淵(かものまぶち)らの歌人たち

が提唱し、和歌の理想と考え、万葉集の歌の中にこれが見い

だされると説いたもの。古今集以後の「たおやめぶり」に対していう。

言霊信仰(ことだましんこう)

古代人は、言語には不思議な霊力が宿っていると考え、特

に神を祭る言葉は、美しく、よい表現を重んじた。

現代語訳:

家にいるときはいつも食器に盛る飯を、今は旅に出ているので、椎の葉に盛って食べることだ。

現代語訳:

大和には群がる山々があるが、よく形の整った天の香具山に登

りたって国見をすると、広い国からは煙が立ちに立ち、広い海か

らはかもめがしきりにたつ。よい国であるよ、大和の国は。

注:蜻蛉島(あきづしま)

日本国の古称。偉大な日本の豊かな実りの国の意。昔、都が大和に置かれたので,日本国の総称となった。雄略天皇(ゆうりゃく?てんのう)に蜻蛉(あきづ)の功績によってアキヅシマヤマトと言えという国名起源説話の歌がある。

現代語訳:

熟田津で船に乗って出発しようと月の出を待っていると、月も出、潮もちょうどよくなった。さあ、漕ぎ出よう。

○あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖ふる(額田王)

訳:赤くかがやく紫の花をさがさないで、皇室の領地で野守りをしないで、どうしてぼくに袖を振るのですか。

○紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(大海人皇子)

訳:もし紫の花のようにきれいな君を憎んでいるのならば、人の妻ゆえに、ぼくの恋する姫です。

高天原に神留り坐す皇親神漏岐?神漏美の命以て、八百万神等を神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて、我が皇御孫之命は、豊葦原乃水穂之国を、安国と平けく知しめせと事依さし奉りき。

飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた

仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。

白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの文化である。飛鳥文化と、天平文化との中間に位置する。

天平文化(てんぴょうぶんか)は、時期では7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族の仏教文化である。東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される。

旋頭歌(古事記)

原文:

阿米都都知杼理麻斯登登那杼佐祁流斗米

袁登壳爾多陀爾阿波牟登和加佐祁流斗米

あめつつ千鳥ましととなどさけるとめ

嬢子に直に逢はむとわがさけるとめ

意味:

雤鳥、筒鳥、千鳥、真鴎のように、どうして貴方の眼は大きく裂けているのですか。

貴方にお逢いしようと思って探していたので、こんなに大きな眼になったのですよ。

枕詞:下に特定の言葉を導き出す技巧で、声調を整えたり、余韻を添えたりする。ほぼ五音節からなる。

例えば、あかねさす→日、昼、紫などを導きます。

序詞(じょことば):ある語句を導き出すために置くもの。声調を整え、表現内容に具体性を持たせる。

枕詞より音数が不定で長いものもあり、受ける言葉も自由で創作性に富む。

例えば、あしひきの山鳥の尾のしだり尾の

最新 日本近现代文学中的成长小说特点分析-精品

日本近现代文学中的成长小说特点分析 随着时代发展,成长小说本身的内涵和形式也随之演变,下面是小编搜集整理的一篇探究日本近现代成长小说特点的,欢迎阅读参考。 前言 一般认为成长小说这一概念起源于德语文学的"小说"(Bildungsroman),是一种带有传记色彩的文学类型。日语《大辞林》等辞典将该词译为"教养小说"(日语汉字"教养"即"教育"之意)或是"发展小说",可以看出是对原词的直译,意即描述主人公经历了人生道路上的种种历练,逐渐形成完善人格的小说。德语文学中的教育小说是成长小说最初的原型,这一类成长小说"是以个人和社会的矛盾尚未激化成敌对状态为前提的,主人公在生活中接受教育的过程就是他通过个性的成熟化和丰富化成为社会合作者的过程"[1]. 随着时代发展,成长小说本身的内涵和形式也随之演变,在思想主题、主人公性格特征、人生际遇和文本结构等方面与传统有了显着差异,在保持着成长小说本质---反映主人公自我身份的确立,实现自我价值的努力和成长旅途上的严峻考验---的同时,呈现出多元化发展趋势。而日本文学中"成长小说"这一说法仍是作为"教育小说"的类义语来加以阐释的,并未体现出成长小说的当代特征。 日本成长小说兴起的历史语境、秉承的文学传统与西方成长小说不同,表现出的思想主题等也不尽相同。本文拟从日本近现代文学作品中选取几部较有代表性的成长小说进行探讨。这些小说发表的年份跨度约80年,大致反映了日本近现代成长小说的概貌。 一、20世纪初的成长小说 明治维新后的日本社会历经了一系列自上而下的改革,政府提出"富国强兵""殖产兴业""文明开化"三大口号。但日本的开化并非像欧美国家那样由内部自然发展而来,不彻底的改良造成社会意识方面的滞后。欧化的只是外表,没有把握到甚至压抑着现代精神的精髓。觉醒于近代的知识分子在外部压迫下渴望发展自我主体性,对"近代自我"的孜孜追求反映在这一时期的文学作品中。可视作成长小说的岛崎藤村的《破戒》(1906)、夏目漱石的《三四郎》(1908)和《其后》(1909)均体现出青年知识分子强烈的近代自我意识,着重描写了主人公成长过程中的自我身份问题。这一时期的作品中多见"边缘人"类型的主人公,他们通常经过与他人的冲突来获得对自我的认知发展。 由于牵涉贱民歧视问题,《破戒》主人公的成长包含了强烈的身份意识。部落民出身的青年教师丑松自幼便被父亲送离出生地,去城镇接受教育,目的是为了让他能够像正常人一样在社会中立足,打破下等阶层的人无法出人头地的命运。丑松遵守着父亲让自己隐瞒身份的戒律,却在接受教育的过程中意识到自己属于特殊的阶层:尽管受过良好的教育,但外界还是不会因为他个人的

浅析日本文学中的“物哀”情怀

浅析日本文学中的“物哀”情怀 发表时间:2018-11-23T09:48:14.970Z 来源:《语言文字学》2018年第11月作者:刘斌 [导读] 更对日本人精神价值观产生了诸多影响,在日本人的性格中仿佛注入了一丝婉转、一抹阴柔,形成了一种难以诉说之美。本文以日本文学作品为载体,阐述了“物哀”这一文学理念的发展历程和在日本文学中的地位,希望对正确认识日本文化有所帮助。 刘斌辽东学院 摘要:“物哀”作为日本文学的美学理念由来已久,不仅在日本文学作品的各个方面予以体现,更对日本人精神价值观产生了诸多影响,在日本人的性格中仿佛注入了一丝婉转、一抹阴柔,形成了一种难以诉说之美。本文以日本文学作品为载体,阐述了“物哀”这一文学理念的发展历程和在日本文学中的地位,希望对正确认识日本文化有所帮助。 关键词:日本文学日本文学美学 在岛国的自然风土的熏陶下,日本人形成其特殊的文化性格和精神结构,培育出崇尚悲哀、幽玄、风雅的气质,进而成为酝酿日本艺术精神的底流,产生了相应的独特的日本艺术美的形态。 一、何谓“物哀” 通过古代神话、历史传说,歌谣等口头文学,以及8世纪有文字记载后诞生的历史文学《古事记》、《日本书纪》和最早的歌集《万叶集》等作品,开始萌发日本文学的“哀”的美学理念。在《源氏物语》中,日本江户时代的国学家本居宣长首先提出将平安时期的美学理论命名为“物哀”,并解释为“在人的种种感情中,只有苦闷、忧愁、悲哀——也就是世间诸多不如意的事,才是使人触动最深的。”“物哀”意识在日本文学中,所体现的是纤细而幽怨的情调,着眼点不是炙如烈酒的浓重,却是淡如止水的清雅。 “物哀”先于其他各种美的形态而存在,它的形成与发展经历了一个较长的历史过程,属于日本固有的美范畴。从《古事记》、《日本书纪》时代开始,日本文学就已产生“哀”的美学理念。换句话说,从古代起,“哀”就深深地渗透到并参与了日本文学的形成,其内与容也随着历史的推移而不断丰富和发展,最终形成了“物哀”这样一种特殊的日本艺术美的形态。 二、日本文学中“物哀”产生的根源 日本人何以催生出物哀文化?为何华夏文明、欧美文化都没有衍生出这样纯洁哀婉,不染纤尘的文学形式?物哀的根源据我来看来可以从如下三个方面阐述: 首先,日本的自然环境是影响物哀文化产生的重要条件。 日本国土狭小,且自然条件多样,列岛四面环海,岛内火山纵横交错,有水汽蒸腾的温泉,茂密森林覆盖大地。由于日本地处岛国,终年雾霭笼罩、景色朦胧。复杂多样的气候条件也产生了日本自然环境的多样;同时,由于岛国较易受到火山、地震、台风等自然灾害的侵袭,使日本人时刻处于一种朝不保夕,现在的拥有顷刻就会消散的悲凉感。 其次,日本的宗教及中国佛教、道教也对物哀文化的产生起到了推进作用。 日本的宗教教义奉行“万物皆有灵”,视自然界万事万物为神祇。日月星辰、山川海洋、花草树木、飞禽走兽它们都是神灵,作为人都应崇敬、亲近以及感怀。至于佛教,日本学者村岗典嗣指出:《源氏物语》中的“物哀”,“流露着一种悲哀、空寂的情调,其中有的平安朝文化的伴随享乐而生的空虚,也可看出佛教无常观和厌世观的影响。”道教崇尚“虚空”,本身就带着消极、悲观的情感色彩,这种消极悲观融合进自然而生凄美悲凉的美感,这种美感就带给人清冷淡泊的超然感受。所以说,物哀文化的产生与当朝宗教的影响密不可分。 再次,日本文学的发展受到了中国古代文学思想的影响。 在中国古代,特别是唐朝以来,中日两国的人员频繁接触,当时中国的文学作品以及文学思想对日本文化和日本文学产生了非常重要的影响。特别是魏晋时期的玄学思想和中国古代文学中的悲美意识,这些都对日本“物哀”情怀的形成和发展起到了推动作用。玄学的最大特征是关注人的个性化发展,强调人格至上,最后演变为人类社会生活的法则。这种思想与法则促使人们形成“指礼法为俗流,目纵诞以清高”的心理,他们抛弃世俗礼法的束缚,注重发挥自身个性、以自我为尊,热衷于通过艺术的方式来表达思想、认识社会。这种文化特质构成日本“物哀”文学观的特质,是一种相对缺乏理性、注重直觉感受、重视细微之处的文化特质。中国古代文学的悲美意识促进“物哀”文学观的深入发展。中国古代文学的悲剧意识对日本“物哀”文学的产生和发展有重要促进作用。中国文化中的悲剧意识主要体现在对生命短暂易逝的感叹,以及社会环境和势力的重压而产生的失落。这些悲剧意识强烈的唤起生命主体痛惜生命的悲愤,以及积极寻回生命的灼热激情,进而引发悲剧主体试图寻求各种方式解脱生命之苦闷以及寻找生命意义的无奈心境。 三、日本文学中“物哀”的体现 1.《雪国》体现出的“物哀”之美 “穿过县境上长长的隧道,便是雪国。夜空下,大地一片莹白。”这样简单的文字,却勾画出了动静结合、浩大震撼的画面,让人读此书第一眼,就不由自主与身体所处的闹世所隔离,仿佛也跟着飞去了幽冷清寂的雪国。 《雪国》中对人物、情节的描写无不透露出一股淡淡的无可奈何的忧愁,渴望寻找到迷惘的生命意义,并试图回避城市纷扰的岛村终究没能在雪国完成心灵的超越之旅。男主人公岛村在与驹子或明或暗的情感纠缠中,这次看似脱离桎梏的狂欢,却实则弥漫着压抑与虚无的基调。这种美得悲凉的感觉即是“物哀”之美。 2.《伊豆的舞女》体现出的“物哀”之美 《伊豆的舞女》的故事背景位于日本伊豆汤岛,一个雾霭迷蒙,绿意葱茏的所在。两位主人公也是纯洁干净,不染尘埃的天真:他们虽然都对对方有着清浅单纯的好感,然而从未说出口有过任何表达。故事的推进缓慢宁静,在山路上,在客栈中,十几天的相处宁静淡然,清寂优美。当然这样的清寂是不可能有结果的——二人终究是萍水相逢,离别是理所当然。 川端康成用写尽樱花纷落如雨,或是火山喷薄而出的壮烈与汹涌来写他们的离别,与之前相处的宁静淡然产生了强烈的对比,也正是这对比突出了物哀的终极消散的思想观念。

新鲜、规范、原创、精准日本文学选读试题答案及评分参考

全国最大的在线直播日语网校 https://www.360docs.net/doc/181381145.html, 最全的日语语法库:https://www.360docs.net/doc/181381145.html,/grammar.php 来挑战一下你的日语水平:https://www.360docs.net/doc/181381145.html,/test.php?ac=leveltest&pid=3 §更多日语学习方法请加早道官方微信:早道日语§

《日本文学选读》试卷 (课程代码0612) 试卷说明:1. 本试卷共4页,满分100分;考试时间150分钟。 2. 答案必须写在答卷上,写在试卷上无效。 一、近世文学部分 次の内容を読んで各グループの選択肢から最も相応しい答えを一つ選びなさい。 1.江戸前期の文学は上方を中心とし、その最盛期は()のころである。 A文化B文政C元禄 2.俳諧では、近世になって、京都の松永貞徳を中心とする①()が広まった。一方、それに対して、十七世紀後半に西山宗因を宗匠とする②()が大阪からおこった。 ①A談林派B貞門派C蕉風俳諧 ②A談林派B貞門派C蕉風俳諧 3.江戸時代の文学は、①()といえる。②()は、厳重な身分制度に縛られていた中で、経済的余裕ができると、遊里や芝居に楽しみを見出していた。そういった遊びの世界で、社交的に洗練された享楽精神を③()と呼び、この理念が浮世草子や浄瑠璃に取り入れられている。江戸文学期の洒落本?人情本には、遊里の事情によく通じていて失敗しないことを誇りとする④()の理念、また、都会風に洗練された、江戸っ子のさっぱりした意気地をさす⑤()の理念が描かれている。 ①A庶民の文学B役員の文学C町人の文学 ②A庶民B役員C町人 ③A粋B意気C通 ④A粋B意気C通 ⑤A粋B意気C通 4.江戸における読本の基礎を作ったのは①()である。『南総里見八犬伝』で読本の代表的作者となったのは②()である。 ①A山東京伝B滝沢馬琴C上田秋成 ②A山東京伝B滝沢馬琴C上田秋成 5.賀茂真淵は、①()を著して国学を体系化し、発展させた。真淵はまた歌人としても活躍し、『ますらをぶり』という②()の歌を詠んだ。 ①A『万葉考』B『万葉代匠記』C『万葉集』 ②A五七調B万葉調C新古今調 6.俳諧で、「さび」「しをり」などで表される幽玄?閑寂の句風は()と呼ばれる。 A浮世風B蕉風C古風 7.芭蕉の『俳諧七部集』はそれぞれ①()、②()、③()、④()、⑤()、⑥()、⑦()を指す。 ①A『夏の日』B『秋の日』C『冬の日』 ②A『春の日』B『夏の日』C『秋の日』 ③A『矌野』B『嵯峨野』C『宇野』 ④A『奥の細道』B『ひさご』C『野ざらし紀行』 ⑤A『猿蓑』B『鹿島紀行』C『更科紀行』 ⑥A『笈の小文』B『炭俵』C『幻住庵記』 ⑦A『嵯峨日記』B『笈の小文』C『続猿蓑』 8.江戸幕府は、身分の秩序?礼節を重視する①()を官学として採用し、林羅山を登用した。やがて、中江藤樹とその弟子の熊沢蕃山は②()を信奉し、それを批

日本的国家利益观、对外战略与对华政策

日本的国家利益观、对外战略与对华政策 标准化管理处编码[BBX968T-XBB8968-NNJ668-MM9N]

日本的国家利益观、对外战略与对华政策 刘江永 2013-2-22 10:38:38来源:《外交评论(外交学院学报)》(京)2012年5期【英文标题】Japan's Concept of National Interest, Foreign Strategy and China Policy 【作者简介】刘江永,清华大学当代国际关系研究院教授(北京 100084)。 【内容提要】在日本对外战略及对华政策演变过程中,日本的“国家利益观”往往起到关键作用。所谓“国家利益观”,是指国家决策层及主流社会对本国国家利益以及本国言行对本国利益造成影响的认知与判断。21世纪以来,在日本国家利益没有根本变化的情况下,日本对外战略特别是对华政策则因内阁更迭而发生较大变化,中日关系也因此出现较大起伏。这与国际格局变化、美国亚太战略调整和日本国内政治思潮影响有关,同时也折射出日本“国家利益观”的变化。日本“国家利益观”受美国现实主义的影响上升,其赖以形成的国内结构性因素也不容忽视,先入为主的错误认知会误导日本对华政策,日本学者等“意见领袖”的影响也不可低估。日本的和平主义思潮与右翼势力对“国家利益”的认定一直各执一词,尖锐对立。每当日本政治右倾化思潮抬头时,日本的“国家利益观”也会随之右摆。围绕钓鱼岛争端,日本能否妥善处理中日之间的现实利益矛盾,扩大共同利益,缩小利益分歧,防止和化解利益对抗,在很大程度上取决于日本“国家利益观”与对外战略的变化趋势和走向。

【关键词】国家利益/对外战略/中日关系/日本对华政策/钓鱼岛 决定一个国家对外战略及国际关系的根本因素是国家利益,日本语中简称为“国益”。但是,究竟何谓国益,各国之间、一国内部,以及一国在不同时期的认识并不一致。因此,更确切地说,“国家利益观”与对形势的战略判断才是决定国家对外战略的关键。所谓“国家利益观”,是指一个国家决策层及主流社会对本国国家利益,以及本国言行对本国利益造成影响的认知与判断。 进入21世纪以来,在日本国家利益没有发生根本变化的情况下,日本对外战略特别是对华政策行为却因内阁更迭而发生较大变化,中日关系也因此而发生较大起伏。例如,21世纪初,由于小泉纯一郎在执政期间顽固坚持参拜靖国神社,中日关系出现“政冷经热”的矛盾现象。2006年中日关系开始走出谷底,通过“破冰”、“融冰”、“迎春”、“暖春”之旅等两国高层互访,终于实现了两国政治关系的转圜与发展。但遗憾的是,2010年中日关系又因钓鱼岛争端和日本出台新的防卫计划大纲而急剧恶化,回暖乏力。这说明,除了实实在在的国家利益外,与国内政治思潮相关的日本决策层的国家利益观,对日本的对外战略及国际关系也会产生重要影响。本文研究和论述的核心问题是:如何认识日本的国家利益观及其对日本对外战略特别是对华政策的影响。 一、日本“国家利益观”与其对外战略的演变

浅论日本文学中的物哀倾向

2012年第·9期太原城市职业技术学院学报 Journal of TaiYuan Urban Vocational college期 总第134期 Sep2012 [摘要]“物哀”作为日本文学的美学理念由来已久,不仅在日本文学作品的各个方面予以体现,更对日本人精神价值观产生了诸多影响,在日本人的性格中仿佛注入了一丝婉转、一抹阴柔,形成了一 种难以诉说之美。论文主要从日本文学中的“物哀”倾向的精神特质分析“物哀”美学思想产生 之原因,通过具体案例分析,就日本文学中的“物哀”的正确理解提出自己的看法,以期为日本 文学中的“物哀”倾向相关文学理念研究的探讨抛砖引玉。 [关键词]日本文学;物哀;文学研究 [中图分类号]I106[文献标识码]A[文章编号]1673-0046(2012)9-0202-02 浅论日本文学中的“物哀”倾向 陈晓敏 (福建对外经济贸易职业技术学院,福建福州350016) 一、日本文学作品中“物哀”之起源 在日本文学代表著作《源氏物语》中,“哀”字处处 可见,揭露了理想与现实的种种矛盾,充分体现了日本文学淡然幽深的审美情趣。据统计,在《源氏物语》中“物哀”一词就出现了13次,这种频繁出现的“物哀”或多或少对全文作品的价值取向形成了一定的基调,并形成了弥漫在整个《源氏物语》中的审美情趣。在这之后,从紫式部开始,村上春树、川端康成等日本文学家一如既往地继承了日本文学“物哀”之倾向。其中,川端康成将日本文学中的“物哀”特质进行了简单归纳:第一,“物哀”,“物”是指的外部世界,而“哀”是自我的情绪表达,是个人的主观感受,“物哀”所体现的对象非仅是“感于物”而哀,而且是物客观存在的本身之哀。具体来说,就是对于“物”的个人情绪的一种外露,一种审美价值的表达。 第二,“物哀”是一种与生俱来的情感元素,是一种审美价值取向,与哀伤并无直接关系。 第三,纵观日本文学史,“物哀”作为日本文学的主基调,几乎或多或少地存在于日本文学作品中,这种审美取向作为日本文学的特征,所包含的感情色彩在日本人看来具有高洁的意味。 第四,日本文学中的“物哀”精神在日本人意识中具体体现,已经上升到具有某种人物统一、物我两忘、自然流露的美学境界,其讲究的是外部事物在个人世界的如何体现,强调的是“物”的反映,是“哀”的体现。 二、日本文学作品中“物哀”之原因 任何文学作品产生的精神特质都是有原因的,或受历史、自然、民族、地理等等因素影响,都是受一定因素制约的。日本文学作品中“物哀”倾向产生的原因同样如此。纵观日本文学史中的古典文学作品,从最早《古事记》算起,“物哀”倾向伴随始终。究其原因,笔者认为大致有三方面: 1.自然地理原因 众所周知,日本是个岛国,四面环海,各种自然灾害频发,因此,为了共同对恶劣的自然环境抗争,千百年来,日本人总是强调坚韧、集体主义,骨子里磨炼出了顽强、好斗的性格。但尽管如此,个人的力量在自然界面前是微不足道的,在千百年与自然界抗争的过程中,日本人的心理难免产生不平衡,怨天尤人在所难免。也正是这个原因,在最初的文学作品中,对于自然灾害的描写格外引人瞩目,给人感觉弥漫着一种悲观、对现实不满意的情调,如描写地震,感叹风暴,抱怨火山等等。我们所熟知的村上春树的地震题材小说《神的孩子全跳舞》、小松佐京日本灾难小说《日本沉没》都属于这一类型,《日本沉没》中作者小松佐京运用很大篇幅描写了日本地质地壳变动、日本列岛逐渐沉入大海、日本人流离失所的故事。这些经典文学作品潜移默化地在日本人的思想中灌输着这种意识,自然而然地在日本文学中,这种因自然地理原因导致的“物哀”倾向曾几何时便成了主流价值观,成了日本文学作品的基本格调。 2.审美价值原因 就日本文学作品中的“物哀”美学思想而言,情和物都是“物哀”构成的主体,情只有和物完全融为一体,才能称之为“物哀”,在这其中,“物”作为“物哀”之现实基础,格外关键。与中国古代文学作品中豪迈大气的作品对象相反,日本人似乎更喜欢精致典雅的事物,究其原因,与日本人的审美价值取向不无关系,整个日本社会的审美价值取向是通过小巧玲珑、精致典雅的事物与天地自然相对比,如此更增添一种无助、渺小之感,先天地蕴含着一种“哀”的思绪。这种审美价值取向更进一步强化了日本文学作品中的“物哀”之倾向,成为了整个日本社会的真实映照。此外,在日本人的固有思维中,瞬间即逝才是美的最高境界。众所周知,日本国花樱花的花期是很短的,大约在每年4月左右,持续时间仅 202··

论19世纪后半叶日本对华政策渐变的思想根源

论19世纪后半叶日本 对华政策渐变的思想根源 渠长根 内容提要 19世纪后半叶是日本历史的重大转折时期。西方势力的强力渗入打破了幕府的锁国政策,对国家发展和民族生存形成了巨大压力;幕府的倒台与明治政权的建立,集中实现了社会变革的价值;而以中国为中心的东亚宗藩体制的渐次解体,则为日本的变革与崛起提供了双重动力———中华民族的全面危机激发了日本发愤图强的意志和决心,清王朝的腐朽堕落激起了日本步西方后尘走对外扩张之路的野心和行为。在这个历史转折时期,日本对华态度和政策发生了重大变化,逐步改变了传统的亲和膜拜理念,加入了疏离、贬抑的色彩,继而采取窥视、试探的手法,最后孤注一掷地发动了甲午战争,向中国的权力和权威挑战。导致这种渐变的原因是复杂的,日本社会各界从不同的立场出发,以不同的方式炮制出了一系列的针对中国的扩张思想主张,并最终付诸实施,是极其重要的方面。这些扩张思想来自于日本社会的不同层面和领域,对明治政府的决策产生了深刻的影响。它们通过酝酿、传播,或包容于政治家、学者、文学艺术家及其他社会权威人物的言论作品里,或流布于国民教育、战争动员、道德评判、社会规范之中,或潜藏在民间人士的野史絮语中,甚至广泛地渗透于国民的心理意识、风俗习惯里。它们间处杂陈,相与为进,共同写实了侵略中国基调下的近代中日国家关系。 关键词 日本 19世纪后半叶 对华政策 思想根源 19世纪后半叶日本渐改传统的对华政策,从一种状态走向一种极端,其形成不是一蹴而就的,有一个渐次加深的过程;也不是无端的、随意的,有一个国际环境和国内形势激发、诱导的历史背景。其中,越来越明朗、系统、坚定化的离华、反华、侵华思想是极其重要的精神性因素。 19世纪后半叶日本对华政策的渐变 19世纪后半叶时值日本江户幕府末期和明治天皇政府的确立和鼎盛时期。 众所周知,19世纪上半叶之前的中国一直处于东方文化的中心地位,引领着整个东方世界尤其是东亚、东南亚地区的发展方向,成为该地区公认的权威和顶礼膜拜的对象。地理上孤悬汪洋、独处一隅,疏离于中国中心而处边缘的日本,源于文化的后起和荒陋,对繁盛的中国恭诚遥望,崇尚有加,主动交通,从中国汲取了大量的文化涵养。因此,在一个相当长时期的东亚政治格局里,中国始终处于上势主导地位,日本处于下势依附地位;而且,在中国的传统国际视野里,日本的地位和影响是极其微弱的,甚至比朝鲜、越南、印度、阿拉伯等其他亚洲国家都要逊色得多。但是,自从中日发生邦交以来,两国基本能够和平相处、友好交往,形成了友好敦睦的历史传统(除却13世纪忽 761

日本文学的基本特征

日本文学的基本特征 日本经历了漫长的史前发展,于公元初进入文明阶段。中国《后汉书》记载,公元57年倭国王入贡后汉,得光武帝“汉委奴国王”印缓。《魏志?侯人传》记载公元146——188年间倭国动乱。邪马台女王卑弥呼统一国家,公元239年派使臣至中国带方郡。公元645年,经大化改新开始确立以古代豪族为基础的天皇专制主义。公元1192年源赖朝创立镰仓幕府,使日本走上封建社会道路,一直延续至1868年明治维新。在第二次世界大战失败之.前,日本天皇号称“万世一系”,从未受到异国异民族的统治。日本是亚洲第一个走上民族独立的资本主义道路的国家。日本的地理条件、社会条件和历史条件,决定了它的文学特征。 第一,日本文学形式在近代前大都是短小的,结构单纯。从古代开始,短歌形式的文学最为发达,后来发展为连歌、俳谐、俳句等,迄今不衰。日语音节、古调单纯,诗的形式不具备押韵的条件,因而日本诗歌极易与散文混同,形成散文诗化。日本随笔、日记文学,都很讲求文体的优美。散文的发展促进了短篇小说形式的物语的发达。十一世纪初出现的长篇小说《源氏物语》,其结构是由短篇小说连贯而成的,前后衔接松散,叙述简单,时间推移与人物性格变化没有必然的联系。在日本,即使长篇小说,其结构也是由短小形式组成的。这一特点贯穿于整部日本文学史,成为一种传统。江户时期井原西鹤的浮世草子《好色一代男》等长篇小说,也都是由短篇故事组合而成的。现代作家川端康成的长篇小说《雪国》,明显地具有《源氏物语》的那种结构和描写方法。日本作家在短小、单纯的结构中追求精炼的艺术表现手法。短短三两句的短歌或俳句,往往能准确地表达日本歌人、俳人的感情世界。随笔和物语中的情节描写,也极少有长段落。 第二,文学性格纤细、含蓄。雄伟崇高,不是日本作家追求的。他们追求的多是感情上的纤细的体验,表现的主要是日常的平淡的生活,在平淡朴素的生活中表达对社会对人生的冷静的思考。日本文学除很少例外,与激烈的阶级冲突一般都没有联系。即使是少数例外,作家的表现方法往往也是含蓄的,曲折的。 第三,日本的文艺观是以“真”、“哀”、“艳”、“寂”为基础的。从“真事”始,平安时期的“物哀”,镰仓、室町时期的“幽玄”,江户时期的“闲寂”,主要是在和歌的基础上发展和提炼出来的。这些理论都是和作家向往的优美境界联系在一起的。而“余情”论为这种优美的境界提供了广阔的天地。日本短小的文学形式,最大限度地发挥了作家的艺术技巧和最大限度地概括了作家所认识的客观世界。 第四,长于摹仿,变革迅速。大化革新后,日本全面向中国大陆开放。汉字、汉语乃至汉诗、汉文,原样移至日本,形成日本文学的重要分支——汉文学。在吸收中国文学的同时,日本创造了变体汉文、假名、和汉混体文,大量吸收中国词汇,创作了独具民族形式的文学作品。大化革新后经过近百年时间,日本文学有了飞跃的发展,相继出现了奈良平安文学及江户元禄文学。明治维新在资产阶级文学没有成长起来的条件下发生,在不到一个世纪的历史里,为日本资产阶级文学的产生和发展创造了条件,日本终于跻身于资本主义世界文学发达国家的行列。 日本文学史的分期 日本历史经历了大和(三世纪至七世纪)、奈良(710—794)、平安(794一1192)、镰仓(1192一1333)、南北朝(1334-1392)、室町(1392—1600)、江户(1600~1868)、明治(1868—1912)、大正(1912一1926)、昭和(1926—1988)、平成(1989-)等朝代。 古代文学.包括奈良时代和平安王朝时代的文学。这一时期古代处于奴隶制的社会条件下,经历了大和时代的口头文学,奈良时代确立起借用汉字汉文的书面文学。氏族时代的英雄故事和传说说,在《古事记>》、《日本书纪》、《风土记》中被记录下来,同时创作了开日本汉诗文先河的《怀风藻》和《凌云集》等。《万叶集》集录长歌二百六十余首,短歌四千余首,深刻地表现了大化革新前后日本社会变革的状貌,成为奈良文学的顶峰。延历十三年(794),京城由平城京迁至平安京,文学随之进入王朝时代。《古今和歌集》确立了日本短歌的基本形式,成为敕撰集之始。

日本古代文学的审美理念

日本古代文学的审美理念 日本书面文学的历史,至少可以追溯到八世纪。在漫长的文学发展历史中,其显著的特征之一便是全体的统一性,或者说历史的一贯性①。具体而言,文学形式和文学审美理念不是以旧换新,而是旧中补新,持续发展。比如,短歌作为抒情诗的主要文学形式有超强的生命力,从八世纪的31音的短歌,到十七世纪以后俳句这一新的形式加以补充,二十世纪以来则常用长自由体诗型,直至今日短歌依然是日本抒情诗的主要形式之一。文学理念方面,上古时代的真实以其朴素性成为日本古代文学的根本精神,进而演变为平安摄关时期的物哀、到古代后期,融入中世的幽玄、空寂和闲寂、近世的风流(日语写作粋),成为日本不易的美学思想。明治以后直至近代,歌人依然重哀能作者求幽玄茶人尊闲寂艺人倾粋。这些美的理念不是随着时代的终结而消失,而是被新的时代所吸收,与新思想并存,成为日本美学发展史的河床。 日本文化精神从萌芽初期,首先表现出以原始万物有灵的神道思想为根基的真实的朦胧意识。所谓真实,既具有如实呈现的、写实的实,又蕴含着道德的、感情的真,是朴素的真实,原始的纯情,如童心般的境地。真实思想最早在上古无文字记载时期的言灵信仰上反映出来,从咒语、歌谣、祝词、古代神话传说这些原始的文学形式,围绕生与死的主题,表现了人的最初生活意识和最原始的愿望,再经过八世纪《古事记》《日本书纪》和最早和歌总集《万叶集》等作品的洗练,逐渐形成了真实的理念。这种重视真心和真诚的真实流贯于日本文学始终,成为日本美学思想的根底。 平安时期开始在真实意识中萌发哀的理念,逐渐演进为情趣化的物哀美学思想。记纪所记载的神话、歌谣所表达的对国家、民族、集团性质的真实感动,是对自然、神灵的共同感动而产生的哀,不是单纯个人的情趣,至《万叶集》后期,逐渐开始产生抒发个人情感,反映朴素的真情实意。平安时代的日记、随笔以反省自己为动因,表现自然的内观世界。紫式部以真实作为根底,深化了主体感情,创作的《源氏物语》被视作物哀文学的先驱,更新了上代的美学精神。这种物哀是心物相接受到感动后的喜怒哀乐诸相,是形式和内容浑然一体的调和,涵有现实的理想化,成为当时美学理念的主流,又超出文学领域,影响到古代日本人的精神和行为规范。如日本人对大自然的钟爱如日本文学纤细、优雅的文风。平安时代中期,源于真实的物哀美学思想的完成,代表了纯粹的日本本土精神,确立了日本文学的美的价值。 时至日本中世的镰仓时代,物哀融入了当时兴盛的禅宗的重悟性好闲寂的精神,当将带有神秘色彩的悟融为富有情趣的艺术来进行象征性表现时,便形成了这个时期美学的最高理念幽玄。幽玄一词源于中国唐代骆宾王的委性命兮幽玄,其后包括佛法在内的一些文献典籍也用此词,以示幽微、玄妙之意。传到日本后内涵与外延都发生了改变,日本最早见于平安时代《古今集》真名序中的歌学用语,当初被用作超俗神秘之意,以示和歌之风韵、雅趣。到了中世,被尊为新古今时代歌坛领袖的藤原俊成,起初把它当作超越姿-词的余情美,在此基础上,以藤原定家的和歌、心敬的连歌、世阿弥的能乐美学论为中心,各个不同时期的代表性文论家又分别提出了自己的观点和主张,构建了中世的美学体系。幽玄开始成为日本文学精神后,它的内容有静寂-妖艳-优艳-平淡的变迁,与素材的写实相比,更重视抽象本质的把握和情调的折射,形式上重言外之意的余情、余韵,如同绘画中的生动气韵。和文学方面,和歌中所现的平淡与清新,军事物语中人生的虚无与哀怨,能乐中的情趣与幽邃,随笔中的平易与寂寥,都体现了佛禅的幽深、玄妙。这种余韵-余情-气韵生动是日本文学精神的重要方面,并渗透到日本文化、生活的各个方面。如日本三弦音色单纯,但余韵悠长;舞姿舒缓简素,但富有张力,不乏流畅美。尤其是茶道,努力在狭小的茶室里,努力创造出一种枯淡、幽寂的氛围,使茶人充分享受‘无即是有,一即是多’的余情与幽韵②,典型地体现了禅的精神与趣旨。幽玄扎根于物哀和佛教的无常观的土壤上,并与余情等因素逐渐融

日本文学史考试重点(上代-近世)

一、上代文学 1、上代文学:平安京迁都(794)以前的文学,发生在“大和地区”,也称为“奈良时代文学”。 2、先土器时代→绳文时代→采集生活→弥生时代→共同体社会 3、“祭”→神圣的词章→歌谣和神话→口承文学(咒语、原始歌谣、神话传说) 4、大和朝廷+百济→汉字传入:口头传承→文字记载(歌谣定型化、神话散文化) 5、圣德太子+苏我马子:“宪法十七条”,大化改新→律令制度 6、推古朝→万叶假名 7、佛教→飞鸟文化、白凤文化、天平文化 8、【古事记(日本最早书籍)】【日本书纪(第一部敕撰正史)】【风土记】【万叶集(最早和歌集)】【怀风藻(最古汉诗集)】 (1)古事记 A、天武天皇、稗田阿礼、天明天皇、太安万侣 B、上中下三卷:上卷→神代(神话、传说),中卷→神武天皇(第1代)~应神天皇(第15代),下卷→仁德天皇(第16代)~推古天皇(第33代)(帝记) a、上卷:高天原神话、出云神话、天孙降临神话、筑紫神话 b、伊邪那岐命+伊邪那美命=大八洲 c、三贵子=天照大神+月读尊+须佐之男命 C、和汉混淆文体:古汉语、变体汉文、假名注音相杂 (2)日本书纪 A、舍人亲王 B、神代卷+帝记(神武天皇~持统天皇) C、正文→唐代风格的古汉文,仿照中国正史编写的编年体史书 D、目的:宣扬国威、实现对外宣传 (3)记纪歌谣 A、形成于“万叶集”之前,不是独立编撰成书的歌谣集,是最早的和歌群 B、歌体自由,无固定格律(五、七句为主,四、六句为次) C、长歌、短歌、片歌、旋头歌 D、三类:恋歌(最多)、战争歌和事变歌(叙事性强)、酒歌和欢乐歌 (4)风土记 A、天明天皇、地方志 B、五国风土记:常陆风土记、播磨风土记、出云风土记(最完整)、肥前风土记、丰后风土记 C、古代汉语或变体汉文写作 D、五项内容:郡乡地名、郡内物产、土地情况、山川原野名称由来、旧闻轶事 (5)万叶集 A、日本最早诗歌总集,抒情诗的源头 B、仁德天皇的皇后~淳仁天皇 C、万叶:万言叶;万世;万叶 D、编者:橘诸兄、大伴家持 E、作者:柿本人麻吕、高市黑人、山上忆良、高桥虫麻吕、山部赤人、大伴旅人、大伴家持、大伴坂上郎女、额田王 F、歌体:定型歌,大部分是短歌;长歌、反歌、旋头歌、佛足石歌 G、万叶假名=男假名=真假名:借汉字的音或义记录日本文字的音 H、内容:三大类→杂歌、相闻、挽歌;其他→譬喻歌、东歌、防人歌、问答歌 I、四时期

近现代日本文学总结

中日文学特点比较: 已故的大学者吉川幸次郎(1904—1980,原京都大学教授)解放前曾在北京留学,在日本是研究中国文化的权威。他在1959年写的一篇文章中谈到中日两国文学的不同时指出:○1中国文学中神话的要素很薄弱。孔子、司马迁都不写神话,而日本的《古事记》中的神话可与希腊神话媲美。而在中国,只在《山海经》等作品中收录了一些神话的片段。○2中国的诗歌哀而不伤,日本的诗歌则哀而伤。○3中国的唐人传奇、宋人话本都是短篇小说,长篇小说《三国演义》、《红楼梦》等出现得很晚,而日本的《源氏物语》这部长篇小说出现很早,这在世界文学史上也是引人瞩目的。 中西进(前国际日本文化研究中心教授)在1988年京都国际研讨会上阐明了日本文学的特点:○1かなり叙情的②上昇型、下降型と分けると下降型である。「平家物語」には滅びの哀韻が響いている③女性的④非論理的、合理性がない○5感性的 我觉得,中国文学本质上与日本文学有所不同,在这里可以归纳为:○1中国文学也抒情,但忧国忧民、抵抗外辱、爱国主义高扬的作品才算是上乘作品。中国文学中也有《红楼梦》这样描写人世枯荣、男女恋情的杰作。○2中国文学的主流是向上的。○3喜欢大团圆的喜剧结尾。○4中国文学与日本文学相比富于理性与哲理。 要研究日本的近现代文学史,首先我们要清楚日本的近现代是如何划分的。一般来说,日本把从1868年明治维新开始到1926年(昭和元年)称为近代,从1927年到现在约80 多年称为现代。 近代日本是亚洲唯一没有沦为殖民地、半殖民地的国家。它经过1868年“明治维新”的改革,走上了资本主义的道路。日本近代文学随着日本资本主义的发展也成长发展起来。它受到西方文化的强烈影响,在短短的几十年(从明治维新到二十世纪二十年代)之间,就完成了欧洲近代文学从文艺复兴到十九世纪末、二十世纪初所经历的过程。近代日本资产阶级在政治上依附于封建天皇制所表现出来的软弱性以及日本近代社会的急速发展,致使日本近代文学呈现了两个明显的现象:一是派别众多,纷纭万状,文学呈现复杂的局面;一是进步的、民主的文学由于政治力量薄弱,又处在急速发展、变化的社会条件中,不能形成强大的文学力量。而现代日本文学的特点绝大部分都受到战争的影响,第二次世界大战时期的日本文学受战争的影响比较大,出现了很多与战争有关的文学作品。 以上是中日文学特点比较以及近现代日本文学的发展背景,下面详细介绍一下各个流派的特点以及代表作家和代表作品。 明治前期主要是写实主义。写实主义的代表当属坪内逍遥了,他的《小说神髓》是日本

从《雪国》中体味日本文学中“物哀”的表现手法

从《雪国》中体味日本文学中“物哀”的表现手法

从《雪国》中体味日本文学中“物哀”的表现手 法 一.文章概述: 《雪国》(ゆきぐに)是日本著名现代著名小说家川端康成(1899~1972)于1935年先后发表在《文艺春秋》、《改造》上的中篇小说。同时,这部作品是作者在被授予诺贝尔文学奖时被被评奖委员会提到的三部小说之一。在其后根据小说被改编成多部同名影视剧。 在这篇文章中,将结合日本著名古典文学《源氏物语》中物哀的思想,根据川端康成全集中川端康成本人所留下的话语,从文章搜寻出作者抒发情感的很多写作方式及其艺术技巧,再现作者内心中最为柔软的深沉情感。 二.关键词:《雪国》川端康成物哀《源氏物语》 三.正文: 川端康成(1899~1972)是日本现代著名小说家,日本第一位诺贝尔文学奖获得者。他1899年6月出生在日本大阪。自幼父母双亡,父亲去世后跟随祖父母回到老家。在《致父母的信》一文中写道:“深深可入我幼小心灵里的,便是对

疾病和夭折的恐惧。”7岁祖母死去,10岁唯一的姐姐也离开了人世,16岁那年他最后一位亲人——祖父也辞别了人世。少年时代的他,深深地体会到了人生的孤独与寂寞,同时形成了他孤僻的性格和他日后作品的悲凉格调。 他自幼喜欢读书,入中学后更热衷于阅读文学作品。后来将自作的诗歌、文章和书信编为《谷堂集》,还频频向报刊投稿。1917年考入东京第一高等学校读英文系后,他依然热爱阅读,其中陀思妥耶夫斯基、契诃夫等俄国作家和志贺直哉、芥川龙之介等日本作家的作品更受其热爱。1920年考入东京大学英文系,第二年转入国文系。在东大期间,他热衷文学创作,积极参加编辑出版东大文科系统的同人杂志《新思潮》。在刊物上发表过一些短篇小说。 1924年春天,他从东大毕业,决心走上文坛,成为专业作家。同年10月,他参与创办同人杂志《文艺时代》,发起新感觉派文学运动。《文艺时代》于1927年5月停刊。其后,他又先后加入了《近代生活》杂志、“十三人俱乐部”和《文学》杂志。进入20世纪30年代以后,日本军国主义势力在亚洲和太平洋地区疯狂侵略

论述影响日本古典文学的文学理念

论述影响日本古典文学的文学理念 摘要:日本古典文学中的文学理念有不少。本文只是就几个基本的,在各个不同时代占主流地位的,同时又对以后的文学有很大影响的文学理念,结合具体的作品,作简单的论述。 有关于日本文学史的划分,有不同的看法。普遍认为可划分为上古,中古,中世,近世,近代五个部分。其中上古,中古,中世,近世文学,即日本明治维新之前为古典文学,而明治维新之后的文学则笼统地称作近代文学。本文试就日本古典文学中的几个基本文学理念进行简单的论述。 一,?真实??真实?的文学理念可以说是日本文学理念的基石。这里所说的?真实?不是柏拉图意义上的模仿,而是指从人的内心自然流露出来的朴素美。是感情与理性协调的真诚的?心?。具体来说,日本最早的歌集《万叶集》中的大多诗歌充分体现了这种?真实?的文学理念。 《万叶集》共20卷,编于八世纪后半叶,收有四世纪至八世纪约400年左右的4000余首歌。(歌的数量说法不一,《新编国歌大观》中记载,包括汉诗共 4540 首。《万叶集目录》统计有 4560 首。而据《袋草纸》记载则只有 4313 首)一般认为编撰者是大伴家持。歌体大致有长歌,短歌,旋头歌,短连歌。作者上至天皇,皇子,皇女,贵族,下至普通官吏和一般平民。按内容划分为杂歌,相闻歌,挽歌,其中以恋爱为内容的相闻歌最多。这些歌或温柔优雅,或刚毅雄浑。但无论哪种歌风,读者

从这些歌都可以看到歌作者真实情感的直接而朴素的流露,是?真言?,是?诚心?。下面举几首歌为例: (一)伊势海岸边 激浪拍巨石 恋情寄波涛 快传我爱知 这是作者笠女郎一首写给大伴家持的恋歌。感情强烈,歌词也直抒心意,一目了然。 (二)翱翔轻之路 驰骋乡里间 急欲仿吾妹 惟恐人多言 频频来又去 难免人发现 这是著名歌人柿本人麻吕怀念死去的妻子的歌。感情真挚,笔触细腻。 (三)食瓜思幼子 食粟情更急 此源何处来 如此牵挂怀 眼前情万般 就寝入梦难

浅析日本文学中的物哀之美

宁波大学答题纸 (2015—2016学年第一学期) 课号:056R12AH5课程名称:外国文学名著赏析改卷教师:杨德煜 学号:153000517 姓名:郑濛得分: 浅析日本文学中的物哀之美 ——以《源氏物语》为例 [摘要]:“物哀”作为日本文学的美学理念由来已久,不仅在日本文学作品的各个方面予以体现,更对日本人精神价值观产生了诸多的影响。在日本古典文学作品中,《源氏物语》是最具代表性的一部巨著,它创立了对日本文学影响最大的“物哀”文化。本文将以赏析的形式解读《源氏物语》中的“物哀”之美。 [关键字]:日本;物哀;源氏物语; 什么是物哀?“物”指自然万物,“哀”即悲哀,睹物伤情、物我同悲是物哀的最直观的理解。日本古典文学以其特有的哀伤情调与精美的语言表达闻名于世,最能体现这一特色的标志性巨著,是被誉为日本古代文学最高峰的《源氏物语》。在《源氏物语》中时时可见的哀怜之情,被概括为“物哀”,润泽着后世文坛。 物哀的含义比悲哀广。叶渭渠指出:“‘物哀’除了作为悲哀、悲伤、悲惨的解释外,还包括哀怜、同情、感动、壮美的意思。”“在美的形态上‘哀’已经不是悲哀的同义语,因而本居宣长(十七世纪日本学者)将这种‘哀’的感动称作‘物哀’。”“对日本文艺中的‘物哀美’,不能简单地理解为‘悲哀美’。悲哀只是‘物哀’中的一种情绪,而这种情绪所包含的同情,意味着对他人悲哀的共鸣,乃至对世相悲哀的共鸣。”杨薇指出:“所谓的‘物哀美’即指喜怒哀乐的种种感动和体验,其所展现的是一种哀婉凄清的美感世界。”林林说:“物哀包括对人的感动、对自然的感动和对世相的感动三个层次的结构。”在不同的层次里,物哀可能是悲哀的消解、超越或深化。 《源氏物语》作为日本古典文学“物哀”文化的开山之作,是日本女作家紫式部创作于11世 纪初的一部长篇写实小说。其中的“物哀”文化是贯穿在日本传统文化和审美意识的一个重要观念。 《源氏物语》中有大多日本诗谣形式的篇幅,将“物哀”与人物性格顺其自然地结合。 《桐壶》 冷露凄风夜,深宫泪满襟。 遥怜荒诸上,小草太孤零。 纵然伴着秋虫泣,哭尽长宵泪未干。 哭声多似虫鸣处,添得宫人泪万行。 嘉荫凋残风力猛,剧怜小草不胜悲。 源氏的母亲桐壶更衣,出身低微的她并没有外戚做靠山,因而在宫中备受冷落与欺凌,就如同 这诗中所写,桐壶更衣将自己比作那荒地上的小草儿一般,孤苦无依靠在一个冷凄凄的露水夜里, 更衣在深宫中泪流满襟,看到荒地上的小草儿,就像看到了自己的身影,无比怜惜。秋虫的鸣叫如 同哭泣的声音,眼泪过了一宿还未干完。这虫鸣声越响,深宫中的人儿流得泪越多。猛烈的风儿吹 得树叶飘荡,对小草的怜惜就越发地深重了……更衣死时,天皇吟诗道:“愿君化作鸿都客,探得 香魂住处来”,可见天皇对其之死深深的愧疚与无奈。而之后出现的藤壶妃子因极像更衣,因此受 宠于天皇。但她与男主角光源氏发生暧昧关系,生下了后来的冷泉帝。“山樱若是多情种,今岁应 开墨色花!”这使她陷入矛盾与痛苦的深渊中,仿佛万物的存在,都只是为了增添悲伤。因此源氏 公子的出现对她来说,就像是一束光芒照进了黑暗,况且源氏公子又是如此的青春年少、光滑照人。

日本现代文学选读自考内容与答案

高等教育自考日本文学选读题库(含答案) 重点课文 伊豆的舞女(川端康成) 1.得到善意的评价,为他打开了进入文坛的道路。 2.1924年,与等创办同仁杂志《文艺时代》,成为的代表作家之一。 3.1926年,成名作。其抒情的笔调,清纯的青春描写赢得了读者的欢迎。 4.1931年, 主义小说 ,是他在文学创作上的一次有益的尝试。 5.与的有机结合促成了他的代表作的问世,并使他的文学创作走上了新的巅峰。 6.1957年,被推选为 ,为日本的国际文化交流做出了许多贡献。 7.年,成为日本的人。年,自杀身亡。 8.川端康成是日本 ,早期作品中居多。显出了他在文学创作上的才华和表现细腻情感的能力。 9.时期,短篇小说集中不乏新感觉派特点的作品。 10.川端康成更注重将与紧密而有机结合,开辟了极富的天地。 是其一次成功的尝试。 11.《伊豆的舞女》被认为 , , 的一部作品。 12.《伊豆的舞女》,发表于1926年,是川端康成 ,被认为是。. 13.着意表现“我”的内心变化、情感波动这一重要内容的同时,在身上,花费的笔墨更多。 14.以“我”为 ,以“我”的视线去观察,用眼光去寻找,用心去感受。这种手法在川端康成的作品中不乏见。 15.作品构成的“核”: 16.作者精心设计的“”这一环境,体现着作者的 ,也是所追求的的重要条件。17.川端康成对的追求,体现在的追求, 体现在 的追求上。 18.孤儿根性: X19.主题思想: X20.日本传统美意识 21.情景结合的描写手法 22.《伊豆的舞女》产生的根源 23.小说效果成立的重要条件 24.川端康成小说的创作特点 画册(田宫虎彦) 1.1947年,在上发表小说 ,获得文坛的承认,由此开始其专业作家的创作生活。2.1951年,短篇小说集《画册》,获。 3.田宫虎彦的大体可以分为类。 4.第一类:取材于历史的。如:、 5.第二类:取材于。如:、、 6.第三类:描写、的作品。如:、 7.第四类:揭示问题、问题的小说。如: 8.第五类:描写的作品和的小说。 9.田宫虎彦的小说创作多是建筑在以及之上。 10.田宫虎彦的 , 的作品在个人情感、内心世界的描写之中,流露出 , 。为传统的文学方法注入了新活力。 11.主题思想: 12.《画册》产生的时代背景

相关文档
最新文档