日本福岛第一原子力発电所

福島第一原子力発電所
福島第一原子力発電所

事故前の福島第一原子力発電所
種類 原子力発電所
電気事業者 東京電力
所在地 日本
〒979-1392
福島県双葉郡大熊町大字夫沢
字北原22番地
北緯37度25分17秒 東経141度02分01秒座標: 北緯37度25分17秒 東経141度02分01秒
1号機
出力 46.0万 kW
燃料 二酸化ウラン
約 69 t / 年
着工日 1967年9月29日
営業運転開始日 1971年3月26日
(2011年3月11日事故停止、2012年4月20日廃止)
2号機
出力 78.4万 kW
燃料 二酸化ウラン
約 94 t / 年
着工日 1969年5月
営業運転開始日 1974年7月
(2011年3月11日事故停止、2012年4月20日廃止)
3号機
出力 78.4万 kW
燃料 MOX燃料 (プルサーマル):3割程度
二酸化ウラン
約 94 t / 年
着工日 1970年10月
営業運転開始日 1976年3月
(2011年3月11日事故停止、2012年4月20日廃止)
4号機
出力 78.4万 kW
燃料 二酸化ウラン
約 94 t / 年
着工日 1972年9月
営業運転開始日 1978年10月
(2011年3月11日事故停止、2012年4月20日廃止)
5号機
出力 78.4万 kW
燃料 二酸化ウラン
約 94 t / 年
着工日 1971年12月
営業運転開始日 1978年4月
6号機
出力 110.0万 kW
燃料 二酸化ウラン
約 132 t / 年
着工日 1973年5月
営業運転開始日 1979年3月
公式サイト:東京電力 福島第一原子力発電所
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福島第一原子力発電所(ふくしまだいいちげんしりょくはつでんしょ)は、福島県双葉郡大熊町?双葉町に立地する、東京電力の原子力発電所である。略称は福島第一原発(ふくしまだいいちげんぱつ)、1F(いちエフ)。英称は Fukushima Daiichi Nuclear Power Station[1]。
福島県は東京電力の管轄地域ではなく、「管外発電所」の一つであり[注 1]、同社によれば供給区域北限の大津港駅より約80km北方に位置する[2]。
2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により炉心溶融と建屋爆発事故が発生し、世界中に衝撃を与えた。2013年4月現在、6基ある原子炉のうち1~4号機は廃炉の途上にある。2012年4月20日付で、1~4号機は電気事業法上、法的にも廃止された。しかし、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律に基づく廃止措置は、使用済み核燃料の除去を要するため、見通しは立っていない[3]。
2011年3月11日の東日本大震災に起因する事故については「福島第一原子力発電所事故」を参照
目次 [非表示]
1 発電設備概要
2 建設までの経過
2.1 常磐石炭産業の衰退
2.2 炉型の調査研究と1号機の選定
2.3 立地調査の開始
2.4 福島県庁の調査?誘致活動
2.5 用地取得
2.

6 地理調査
2.6.1 立地点の地形
2.6.2 風況
2.6.3 海象状況
2.7 配置計画
2.8 敷地造成
2.9 敷地地盤高の決定
2.9.1 港湾施設の計画
2.9.2 防波堤
2.9.3 地震動の検討
3 建設の経過
3.1 1号機
3.1.1 耐震設計
3.2 福島幹線の建設
3.3 安全協定の締結
3.4 保安規定の作成
3.5 国産化への道
3.6 2号機
3.7 草創期の人員配置
3.8 3号機
3.9 建設工程の繰り延べ
3.10 5号機
3.11 4号機原子炉圧力容器矯正事件
3.12 接続基幹系統の拡充
3.13 6号機
3.14 建設工事費の高騰
4 発電所運営の経過
4.1 スリーマイル原子力発電所事故の影響
4.2 メンテナンス活動(1970-1980年代)
4.3 応力腐食割れへの対応
4.4 負荷追従運転の模索
4.5 原子炉運転方法を改良
4.5.1 出力低減操作
4.5.2 起動
4.6 低レベル放射性廃棄物処理の改良
4.7 情報化の進展(1980年代)
4.8 福島第二3号機再循環ポンプ損傷事故の影響
4.9 アクシデントマネジメント
4.9.1 強化ベントの追設提案
4.9.2 ハード面の具体策を策定
4.9.3 非常用ディーゼル発電機の増設
4.10 使用済み燃料貯蔵施設の増強
4.11 定期検査の短縮化(1990年代)
4.12 シュラウドの交換
4.13 燃料棒の地震対策
4.14 定格熱出力一定運転の導入
4.15 2004年の組織改編
4.16 高経年化対策
4.16.1 背景と課題
4.16.2 予防保全活動
4.17 近代化した運転?保修活動への苦言
4.18 TPM活動の導入
4.19 中越沖地震への対応
4.20 7、8号機の増設計画の経緯と中止
5 年表
6 詳細仕様
6.1 環境モニタリング
6.1.1 批判的な見解
6.2 燃料調達方法
6.3 使用燃料の変遷
7 発電所の運営
7.1 人員数
7.2 研修体制
7.3 BTCの活用
7.4 保修訓練所の設置
7.5 現業技術、技能認定制度
7.6 協力企業
7.6.1 きずなdeふたば
7.7 安全衛生
8 主なトラブル
9 警備体制
10 発電所と関係者の生活
11 立地自治体との関係
12 メディアの姿勢
13 反対運動
14 脚注
14.1 注釈
14.2 出典
15 参考文献
16 関連項目
17 外部リンク
発電設備概要[編集]

全ての原子炉は、米国のゼネラル?エレクトリック社(GE)によって設計されたものを基本としている。プラント施工工事は鹿島建設によって行われた[4][5]。7、8号機については建設計画を進めていたが、2011年3月の爆発事故の影響で、2011年5月、計画を中止する旨の発表がなされた。
総出力:188.4万kW(2013年1月現在)
プラント
ナンバー 原子炉形式[6] 格納容器
型式[7] 運転開始 定格電気
出力 主契約者[8] 建設工事費[9] 現況
原子炉 タービン
発電機 付属設備
1号機 沸騰水型軽水炉(BWR-3) Mark-1 1971年3月26日 46.0万kW GE GE GE 約390億円 東北

地方太平洋沖地震および
福島第一原子力発電所事故により破損、事故停止
2012年4月20日付で廃止
2号機 沸騰水型軽水炉(BWR-4) Mark-1 1974年7月18日 78.4万kW GE GE 東芝 約560億円
3号機 沸騰水型軽水炉(BWR-4) Mark-1 1976年3月27日 78.4万kW 東芝 東芝 東芝 約620億円
4号機 沸騰水型軽水炉(BWR-4) Mark-1 1978年10月12日 78.4万kW 日立 日立 日立 約800億円
5号機 沸騰水型軽水炉(BWR-4) Mark-1 1978年4月18日 78.4万kW 東芝 東芝 東芝 約900億円 東北地方太平洋沖地震により停止中
6号機 沸騰水型軽水炉(BWR-5) Mark-2 1979年10月24日 110万kW GE GE 東芝 約1750億円
7号機 改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)
計画中止 計画中止 計画中止 計画中止 計画中止 計画中止 計画中止
8号機 計画中止
原子炉形式の呼称
GEは安全規制、性能向上策の進展に伴って2~3年おきに新型のBWRを発表し、それらは当時、1965年型、1967年型、1969年型などと呼称された。その後、建設プラントの名前を取って、ドレスデン2型、ブラウンズフェリー型などと称されたこともある。1972年に新型BWRプラントを発表する際にその名をBWR-6型とし、従来発表したプラントについてもBWR1~5という番号付けをした。なお、格納容器にはMark番号が付いている[7]。

主要プラント



事故状況 (1-4号機およびトレンチ)

建設までの経過[編集]

常磐石炭産業の衰退[編集]
1950年代末期の福島県浜通りは高度経済成長の波に乗り遅れ、中通りと会津地方を含めた福島県全域の産業近代化率も全国平均の270%と比較して126%と低位であった。このため、福島県庁は産業誘致のため電源開発に努力していたが、エネルギー革命によって、茨城県助川から浜通り夜ノ森以南にかけて広がる石炭産業と、浜通り夜ノ森以北の林業[注 2]が衰えて来たため、新たなエネルギー源を模索していた[10]。
ただし、『とうでん』1993年11月号によれば、東京電力社内に原子力発電課(後述)が設けられた1955年頃、東京電力の電源構成は従来の水主火従からの転換が漸く始まった頃であったが、その際に登場した火力とは石炭火力を意味し、燃料として石油を使用する事はまだ殆ど検討されていなかったため、社内では折からのブームに乗った原子力の方が石油火力より実現に向けた動きでは先に手をつけたものだったという[11]。
今井孝三のルポによれば、助川~夜ノ森では、最盛期の1961年には42の炭鉱で248万tの生産高を記録している。しかし、1969年には3炭鉱で215万トンにとどまり、事実上常磐炭鉱磐城鉱業所の管轄する2坑口からの生産

がその内訳の大半を占める状態となり、中小炭鉱はほぼ消滅した状態であった。常磐炭の需要確保のため、すでに常磐共同火力発電所が設立され、1971年当時で72万kwの出力で操業をしていたが、将来的には石炭関連産業だけでやっていくことには限界があると考えられていた[12]。
炉型の調査研究と1号機の選定[編集]
詳細は「東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯」を参照
立地調査の開始[編集]
東京電力原子力発電課は、設計研究を進める一方で立地について関心を強め、課員らは伊豆半島、姉ヶ崎、鹿島、東海村、水戸射爆場跡地などを俎上に上げていた。これらの内、伊豆半島は地震多発地帯であり岩盤に亀裂が多いことから避けられ[注 3]、姉ヶ崎は東京湾岸で人口密集地に近いことから対象より外された[13]。水戸射爆場跡地は日本原電も隣接地に目をつけており、東海発電所の立地点となった[注 4]。
立地選定活動について定量的に記載したものとしては、調査を担当した小林健三郎[注 5]が『土木施工』1971年7月号に投稿した記事がある。これによれば、発電所の総建設費を設置場所に係わりなく定まる固定費(例:主要機器)と、設置場所により変動する立地費に区分し、更に立地費を10項目に区分した[注 6]。更に発電所の総建設費に送電線費を加えた額を初期投資として考慮し、立地費と送電線費が最も安価となる地点を調査した。政治、社会的条件は無視したという。この結果、同社管外を含め全国より291地点を素材地点として選定、当時の原子力立地基準に適合している73地点を選定した。実際に決定した敷地は「地点番号8:長者ヶ原」としてこの73地点に含まれている。開発規模4000MWで立地費を算定すると全国平均が4530円/kWに対して当地点は2887円/kW(いずれも算定年1967-1968年度)で平均値より低くなった。なお、双葉町に増設を決定する前の開発規模4基2812MW[注 7]で立地費を算定すると3809円/kWとなり、開発規模を大きくとることでスケールメリットの利益を得られる旨が指摘されている[14]。
福島県庁の調査?誘致活動[編集]
この間、福島県庁は東電とは別に独自に原子力発電事業の可能性について調査を実施していた。松坂清作によると県庁が調査研究を始めたのは1958年である[15]。1958年当時の福島県知事は佐藤善一郎(中通りの福島市出身)であり、後に福島県知事に転身する木村守江(浜通りの四倉出身)は当時国会議員であったが、浜通りの夜ノ森周辺の自治体より産業誘致の相談

を受け、東京電力社長の木川田一隆(中通りの梁川出身)に話してみたところ、「原子力発電所が好いのではないか」との回答を得た。しかし、木村が誘致の姿勢を示すと木川田は曖昧な態度を取り、1961年になって木川田の側から用地についての取りまとめを依頼してきたという[16]。当時双葉町長であった田中清太郎によれば、当時、放射能に対するアレルギーは浜通りに無かったものの、発電所建設の下見のため木村や佐藤善一郎(木村守江の前任知事)が視察にやってきた際は目立つハイヤーではなく、ジープを用意してきた。当時の大熊町長?志賀秀正によれば、県の企画開発課から人が来た際にも、風体を山師のように装っていたという[17]。
『福島県史 第18巻』によると外房の沿岸は砂丘地帯が連なり強固な地盤が無かった。このため、立地の適地は関東沿岸を北上し、「東海村近く」の「茨城県北部より宮城県南部の当福島県海岸は、非常に好適地」と見なしている[18]。県庁が実施した調査の結果からは、県内の海岸地帯が(1)小名浜周辺、波立海岸周辺、松川浦周辺を除いて単調、(2)人口希薄、(3)30m程度の断崖になっていた、の3点から適地であると判断し、旧標葉郡の3か所を選定した[10]。
大熊町、双葉町に跨がる地点
双葉町
浪江町
この調査結果は1959年の某日東電の常務会でも田中直治郎より報告され、木川田は買収を前提にお忍びで現地の視察を命じた[19]。また『福島県史 第18巻』によると、浜通りは送電線の建設コストでも北東北の適地よりは有利であった[注 8]。
また、福島県庁は当初東北電力にも打診したが、当時は奥只見水力発電所の開発が終了したばかりで供給力は過剰気味であったため、乗り気ではなかったという[20]。県庁が提示した調査結果ではいくつか不足の点があったため、東京電力は追加調査を県に依頼した[21]。これを受け1961年に発足したばかりの県開発公社では工業用水調査、航空撮影調査、地質調査などを実施した[22]。1963年には大熊町に原子力発電所を建設する意向が内定した。
これと併行して、福島県庁は1960年5月に日本原子力産業会議に加盟した。知事の佐藤は企画開発部を動員して綿密な科学的調査を実施させた[15]。企画開発部にて調査研究を担当したのは技師職に就いていた酒井信夫(後福島公害防止センター長)だった。当時酒井は次のような方針を立てて調査を実施した。
人間の知識で防止できるものは、最高水準の知識を使う。
人間が考え

られる異常な現象をも組み入れて設計すること。
当時酒井の関心も誕生したばかりのBWRの安全性が確保出来るかどうかに向けられており、調査の焦点もそこに絞り込まれた。原子力産業会議に県が参加したのは調査のための情報収集を目的としており、同会議を通じて各国のレポート、政府当局、電力各社の動向などをモニターし、1961年には国際原子力会議にも出席して資料収集を続けた[23]。
なお、県側の情報収集については酒井個人の役割を強調するコメントもあり当時担当した職員の一人は「酒井主査は原子力産業に関する情報を独力でかき集めていました。(中略)庁議にもかけ県首脳部の了解を得て地域開発の一環として東京電力に話を持ち込んだのです。東京電力と話し合いをしましたところ、あそこに水が出るなら、考えてもいいということになったんです。それで開発公社の資金を利用して酒井君に地下を掘らせたんです」と述べている[24]。
福島県庁より正式に誘致を申入れたのは1960年5月であったという[15]。その後佐藤の病死により公示された選挙戦を勝利した木村守江は佐藤の方針を踏襲し、福島県は1961年9月より東京電力と交渉を始めた[23]。9月30日には双葉町議会、10月22日には大熊町議会が誘致を議決した。発電所誘致には両町議会共全員賛成であった[10]。もっとも、恩田勝亘によれば、町議達には東電からの猛烈な接待攻勢がかけられたとしている[25]。
用地取得[編集]
詳細は「福島第一原子力発電所の用地取得」を参照
1号機所在地である大熊町の当該地は、元々は長者ヶ原陸軍飛行場の飛行場跡地[26](旧帝国海軍の飛行場とする記述も見られる[27])。第二次大戦後、この土地は民間に払い下げられた。高さ30m余りの断崖で、国土計画興業[28]が製塩のための塩田として広大な敷地[注 9]を買収していたが、製塩事業は調査時点では終了していた。また、残りの予定地もまた民有地だったが、一部が農地として使用されていた程度であり、残余は山林原野であった。東京電力は調査を進展させつつ、1964年に入ると用地買収交渉を開始、二期に渡った約96万坪、320万平方メートルの買収に要した価格は約5億円で、この他社宅地その他として約8万平方メートルを買収した[29]。
このような僻地に発電所を設置した技術的な理由は、当時の日本の原子力発電所設置の考え方として「万一の原子炉設備の破壊事故により放射性物質の大気拡散時に周辺公衆に重大な災害を及ぼさない」ため、「発電

所敷地を高い人口地帯から出来るだけ離すことを必要」としたからであった[30]。
地理調査[編集]
東京電力は1964年12月に調査事務所を現地に設置し、気象、海洋気象地質、地震発生率、資材運搬の地理的条件、地下資源の埋蔵状況等を調査し、安全性、経済性から原子力発電所の立地が可能と決定したのは1965年10月のことであった[31]。以下では、県と東京電力が実施した調査結果について説明していく。
立地点の地形[編集]
本発電所の立地点は相双地帯南部の海岸段丘地帯に位置し、ゆるい傾斜のある丘陵であった。東側は上述のように元々は急峻な断崖であった。地質としては下層に砂岩、その上層にある富岡層に属するシルト岩が主体であり、更にその上を砂礫からなる段丘堆積層が覆っているが、その層厚は不整合である。砂岩はかなり締まっておりN値40以上であったという[32]。富岡層の層厚は200~400m、間にレンズ上の砂層を挟み、その他の性状は下記の様になっている[33]。
泥岩部分の極限支持力:700~1000t/平方メートル
弾性波伝播速度:縦波1700m/sec、横波610m/sec
敷地前面の海底形状は沖合600m、1000m、1300m付近に河線に平行して高低差2~3mの不規則な起伏があり、複雑な地形であるが、海底勾配は全体として沖合450m付近まで60分の1の急勾配、それより沖合は130分の1の緩勾配となっていると言う[34]。海底は基層である泥岩の上に深いところで2~3mの砂層が堆積し、水深が深くなると砂層の堆積は薄くなる傾向にあった。
風況[編集]
敷地地上8mの風向分布は調査の結果次のように報告された[35]。
年間を通じ西、西北西、北北西が卓越し、出現頻度は各々約12%弱
上記はいずれも敷地から海へ向かう風である
年間の風速は毎秒約2.5mで、最多風速は毎秒約2mである
静穏状態の出現頻度は4.5%である。
英国気象局方式分類による敷地の年間の大気安定度については下記のように報告された[35]。
D型:出現頻度40%弱
B,C,F型:出現頻度各18%弱
E型:5%弱
A型:0.2%
また、80m以上に逆転層があり、80m以下が逓減である拡散上悪い気象状態の出現頻度は年間1%程度であるという[35]。
海象状況[編集]
『月刊 土木技術』の記事によれば、東電が実施した取水設備、港湾設備等の土木工事の開始にあたって、1964年12月の用地取得?現地調査事務所開設と同時に地質調査、海象調査を開始し、1966年12月の防波堤築造までの2年程実施したとなっているが、「調査期間が短期間であるため防波堤の設計に役立つ十分な資料をとるこ

とはできなかった」とも記されている[36]。
当時、発電所の立地点では継続的な潮位観測を実施しておらず小名浜港のデータ(O.P.=Onahama peil 小名浜港工事基準面)が参考にされたが、その観測結果(1951年~1961年)は次のようになっており、こうした情報を元に防波堤の設計などが実施された[37][注 10]。
高極潮位:O.P+3.122m(チリ地震津波)
塑望平均満潮位:O.P+1.411m
平均潮位:O.P+0.828m
塑望平均干潮位:O.P+0.091m
低極潮位:O.P-1.918m(チリ地震津波)
波向は次のようになっており、汀線に直角な東方向が多い傾向であった[37]。
冬期:東北東方向が卓越
春期~夏期:東~東南東方向が卓越
秋期:東方向が卓越
近隣他港のデータを主に参考としたとは言え、本地点での調査自体も実施されている。波浪観測は1965年2月より開始され、波高は水圧式波高計、波向はトランシットによる目視観測を実施している[38]。
配置計画[編集]


1975年当時の福島第一原子力発電所(3-6号機は建設中)[39]
1号機を選定した際、スペインにて先行して工事が進められていた同型炉の計画を活用したが、モデルとなったサンタ?マリア?デ?ガローニャ原子力発電所1号機は内陸にあり、契約業務と並行してプラントレイアウトについて検討が進められた[40]。その結果、海側にタービン建屋を設置し、その脇の山側に原子炉建屋と主変圧器などを設置することとした。事務本館はタービン建屋の中村側に設置し、1、2号機用超高圧開閉所は両ユニットの山側、標高35mの台地上に設置した[注 11]。なお、1号機周辺の敷地は上記の標高30ないし35mの台地を掘削し、標高10mで整地された。東京電力が企画した「黎明」という宣伝映画では掘削時の映像が収められている。原子炉建屋など重要度の高い建物を岩盤に直接支持させるため(岩着、後述)であったが、津波の可能性は下記に示すように建設当初より、一定のレベルまでは考慮していた[41]。整地面レベルは津波対策に必要とされた敷地高さ4mを上回る10mとなったが、この高さが最もコストを低減するためだった(下記別節にて詳述)。
『東芝レビュー』1969年1月号にて一木忠治が述べているように、整地面レベルこれら建屋をどのような位置関係で配置するかについても幾つかのパターンが考えられている。高城真(当時東京電力原子力部電気機械課)によると、タービン建屋は復水器冷却水の取水?放水を考慮して出来るだけ海岸に近いところに設置し、本発電所では「タービン発電機の軸を

海岸線と平行にし横から復水器冷却海水を取り入れ、山側にタービン建屋に隣接して主変圧器を置き、発電機から主変圧器までのアイソレ母線を短くし、さらに山側にある開閉所までの電力ケーブルが短くなるよう配慮」した[42][注 12]。
なお、2号機と3号機の間には施工管理、運転管理上20mの空地が設けられた[43]。
また、発電施設を海岸沿いに設けているため、元の海岸線からどの程度海側に突き出すかについても検討され、下記の3案を比較した。
a1案:敷地全体を陸上部に配置:84.3億円(土工費+取水設備費+港湾費)
a2案:原子炉建屋、タービン建屋等は陸上部に配置し取水設備は埋立部に配置:78.9億円
a3案:原子炉建屋、タービン建屋等プラントの敷地全体を埋立部に配置:84.0億円
この結果、a2案が最も安価であったので採用された[43]。
敷地造成[編集]
敷地造成工事は後述するプラント設備のように、GEとのターンキー契約の対象ではなかった。東京電力の施工範囲とされ、東京電力の指示でゼネコンが工事に従事している[44]。
熊谷組:敷地造成、冷却水路関係、物揚場護岸
間組:原石山骨材プラント
前田建設:バッチャープラント、コンクリートブロック
五洋建設:防波堤
工期は1966年6月1日より1967年3月末までの10か月間であるとされたが、仮設設備や梅雨の影響を考慮すると実質的には8か月半、更に道路部分の掘削はコンクリート舗装を考慮し少なくとも2か月前には掘削を完了する必要があった。1号機分として必要なスペースは170m×200mである。この敷地造成に当たり、掘削必要量は約120万立方メートルであり、地質に適合した大型機械を使用した。具体的には標高35mから標高27mの間は柔らかい土質で地下水の湧出も少ないためのモータースクレーパーを使用し、標高27mから標高10mの間は常に地下水が湧出し地盤がぬかるみやすい層であったのでウェルポイント工法で地下水を汲み上げし、仮排水路も設置しつつ、掘削にホイールローダーが使用された[45]。
埋立、浚渫のその他の仕様数値については下記の様になっている。
1号機用整地面積:約32,000平方メートル[46]
掘削土量約995,000立方メートル[46]
物揚場泊地水深:O.P.-6.0m[46]
取水路開渠水深:O.P.-3.5~-4.5m
浚渫土量:約230,000立方メートル
埋立:380,000立方メートル
内切取埋立約150,000立方メートル
なお、防波堤堤体材料は東京電力が材料を建設業者に社給した。付近の小河川の産骨材は殆ど乱堀されていたので、供給源は本地点南西18kmに

位置する滝川付近の原石山の社有地に採掘場を設け、骨材を生産した。コンクリートブロック、テトラポッドの生産も実施した。岩質は花崗閃緑岩、輝緑岩であった[47]。
本発電所の初代所長、今村博によれば、長者ヶ原飛行場は上述のように戦時中アメリカ海軍より艦砲射撃や爆撃を受けたため、用地造成中には土捨場から50kg爆弾が発見されて山形県神町駐屯地より不発弾処理隊が派遣されたこともあったと言う[26]。
敷地地盤高の決定[編集]
「福島第一原子力発電所事故#福島原発事故前の、事故リスク評価と、これに対する政府?東京電力の答弁及び対応」も参照
一木忠治が東芝レビューに投稿した記事によれば、整地面レベルを決定する際、通常のプラントでは建屋設備の配置、建設作業に必要な用地を経済的に造成できることが必要としていたが、原子力発電所の場合はそれに加えて、当時から次の点を考慮していたという[48]。
高潮、津波への危害を回避すること
原子炉建屋の設置に適する場所であるかの検討(耐震性、岩盤支持の問題)
高潮、津波対策としては土木的には下記の2種の方法が挙げられている[48]。
整地面レベルを高く取る
防潮堤、防波堤を構築する
しかし、防潮堤、防波堤の構築は当時信頼度の点から好ましい手段とは見なされていなかった。そのため、整地面レベルの決定に際しては、「過去の記録あるいは何らかの科学的推論にもとづく最大の高潮や津波時の海水面レベルの上昇の想定値に多少の余裕を与えて」さらに岩盤支持の問題も考慮して最低の許容レベルが決定された、としている[48]。
なお、津波の検討に使用された参考文献として小林健三郎は下記の文献を挙げている[49]。
羽島徳太郎「日本太平洋岸における遠地津波」、『東京大学地震研究所報』43,46,47、東京大学地震研究所、1965,1967,1969 1969。
1966年5月20日の講演にて田中直治郎は、30mの台地を23m掘削して海抜7m程度とする旨を述べていたが、同時に「GEから見積書と仕様書が出ると、配置、レベルについてはさらに多少の変更を要するので、請負業者とは打合わす必要があると思います」としていた[50]。その後高波、津波に対して「十分安全な高さ」を考慮し上述のように海抜10mで決定、施工された[32]。また、地下1階まであるマークIのような標準プラントでは、東芝レビューによれば整地面レベルから10m程度掘り下げたところに岩盤があるのが望ましいとされた。結局、1号機の原子炉建屋の底面は整地面より14m

ほど掘り下げられた高さに位置することになった[51]。敷地地盤高がこのような形で決定したのは、定量的な比較検討を経たからで、小林健三郎は1号機の運転開始後、次のように振り返っている。
発電所敷地地盤高は、波浪および津波などに対する防災的な配慮とともに、原子炉および発電機建屋出入口の高さ、敷地造成費、基礎費、復水器冷却水の揚水電力料などがもっとも合理的で、しかも経済的となるように決定する必要がある。

当地点付近の高極潮位は小名浜港においてO.P.+3.122m(チリ地震津波)であるので、潮位差を加えても防災面からの敷地地盤高はO.P.+4.000mで十分である。

一方、地質条件より原子炉建屋の基礎地盤高をO.P.-4.0m(復水器天端高O.P.+9.8m)と決めたため、原子炉建屋の出入口との関係からみると、発電所敷地地盤高は1号機ではO.P.+10.0mが好ましく、2号機以降分は基礎地盤高を調整すれば、この地盤高に原子炉建屋の出入口を揃えることができる。

次に170m×460mの陸上部の敷地造成に必要な掘削費、O.P.-4mの基礎地盤までの建物基礎掘削費および勾配1/20、幅員9.5mの進入道路の掘削費の合計額が最経済的となる敷地地盤高を求めた結果は図-8[注 13]の通りとなり、この結果からもO.P.+10m付近が最低値となることが明らかとなった。
以上の結果により、陸上部の敷地地盤高をO.P.+10mと決定し、埋立部のポンプ室付近地盤高はO.P.+4.0mとした。

— 「福島原子力発電所の計画に関する一考察」『土木施工』1971年7月pp.121-122

港湾施設の計画[編集]
それでも写真のように、小規模な港と防波堤が建設されたのは次の理由からである。復水器冷却用水の取水法を検討した際、海底パイプライン、海底隧道、桟橋、港湾の各方式を比較検討し、最も経済的であり、且つ建設資材や運開後の燃料搬入にも使用できる港湾方式を採用した[注 14](1-6号機完成時点では毎分245立方メートルとなった[52])。取入口の海水輸送用の鉄管は1号機の例で直径2.4mもあった[53]。なお、港湾方式による取水は在来の東京湾岸の火力発電プラントにおいても多用されている方式でもあった[36]。また、重量物搬入の面が重視された背景には軽水炉特有の事情も影響していると言う。つまり、当時の一般火力に比較しても蒸気条件が低いため、圧力容器、タービン、発電機のいずれもが大型とならざるを得なかった。圧力容器を例に取ると1号機で重量440t、直径約5m、高さ約19mであり、厚肉のため現場溶接は不可能であった[36]。この

ため、後述のように防波堤を港湾周囲にめぐらす工事が実施された。
なお、物揚場バース長は170mである[37]。港内波高と荷役の安全から物揚場敷地地盤高はO.P.+5mである[54]。
『月刊エネルギー』に掲載された今井孝三の見学記事では、圧力容器の他、復水器、タービン、発電機、変圧器等の重量物の陸揚げに使用され、1968年10月以降1971年2月末まで、3年弱で96隻の着岸があったという[55]。
1970年代、外洋に面した立地で発電所を建設していた国は日本の他には少なく、本発電所には発展途上国だったインドや内陸に発電所を建設する傾向が大きかったヨーロッパの技術者が見学に来ていたという[52]。
防波堤[編集]
海象調査や近隣地点のデータ検討の結果、設計波高として、6.5m(1/3有義波、周期16秒、波向東北東)と決定した。防波堤の平面形状については電力中央研究所に依頼して問題点の把握に努めたという[38]。このため、中央研究所で平面縮尺100分の1、二次元実験36分の1の模型実験(防波堤の波浪遮蔽効果実験等)が実施された。防波堤設計に当たっては日本港湾コンサルタントの助言も得ている[56]。
防波堤の設計に当たっては、取水口開渠内の最大波高が50cm以下になるように計画し、南北2本の防波堤で波浪を防ぎ、この防波堤を超えた波については取水口周辺に設けた東防波堤によって防ぐものとした[注 15]。建設する港については3000トン級の船舶が入港可能なように、港口幅100m、港内泊地の水深6mを確保している。防波堤外には波消用にテトラポッドを投入した[57]。
北防波堤天端高:O.P.7m
南防波堤天端高:O.P.5m
『東電社報』1969年5月号によれば付帯施設とは言え新規に港湾をひとつ建設する工事であり、築堤のために海中に埋められるコンクリート構造物だけで約58万トンにもなった。原石山からの輸送には大型ダンプ20台が毎日7往復したという[53]。ただし、砕石運搬道路沿いの桜を伐採する問題もあり、港湾工事を総指揮していた小林健三郎は対応に苦心したという[58]。南北防波堤共、先端部に使用するケーソンは小名浜港で建造し、合計で10個が埋設された。1個の重量は700~800tになる[59]。
『電気情報』1969年10月号での座談会では「太平洋の荒波に面したこのような当地点に、僅か三~四年の短期間に、総延長二四〇〇~二五〇〇メートルの防波堤をつくるということは、東京電力は勿論のことわが国においても初めての工事です」と新規性が指摘されている[60]。
また、発電所開所後福島民報

が女性社会科教室を主催し、サービスホールを訪問した際に当時の館長菊池健の説明を引く形で「津波にしても延長二千八百メートルの防波堤がたいていの波浪をシャットアウトしてしまう」などと報じている[61]。
地震動の検討[編集]
柴田碧によれば具体的作業の面から地震動の検討について見ると、福島や敦賀発電所の時代は、個別のプラントごとに社内委員会の形で議論されたという。福島については、河角マップ[注 16]を元に、1936年に宮城県沖で発生した金華山沖地震時の金華山神社の記録調査などが実施され、金華山近くの内側の地震発生機構を討議したという[62]。
豊田正敏の機械学会での発表によれば、1号機の建設当時検討した歴史地震の頻度などについては下記のような結果だったという[63]。
敷地周辺で被害を及ぼした地震については著しい被害は見られない。
強震(当時の震度5)[注 17]以上:150年に1度
烈震(当時の震度6)以上:400年に1度

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