日本経済

日本経済
日本経済

序章日本の経済規模とその課題

1.日本はGDPなどフローの面でも、国富などストックの面でも、さすが世界有数の経済大国である。

2.尐子高齢化社会が進むにつれ、次の問題が発生してくる:第1は、社会保障制度の危機である。第2は、労働市場の変化である。第3は、金融にも影響がある。

3.経済学では、ジニ係数を使って一国の所得の平等さを測っている。ジニ係数は0~1の間の数値であり、0は絶対平等、1は絶対不平等を表す。0.4は不平等の警戒線であり、それ以上に鳴ればなるほど、所得格差が大きくなる。

第1章敗戦からの経済復興(1945~1955年)

4.戦後の日本経済を復興期、高度成長期、安定成長期、バブル経済期、バブル崩壊以降の時期に分ける。

5.終戦直後の日本経済には次のような特徴がある:第1は、食糧不足の深刻化である。第2は、大量失業者の発生である。第3は、インフレーションの高進である。

6.厳しい経済情勢に直面する日本政府は、経済危機緊急対策として、1947年初めからいわゆる傾斜生産方式を打ち出し、物資需給と資金需給計画を取り入れて、重要産業への傾斜的な物資と資金供給を行い、縮小再生産に陥る危機を打開する政策をとった。

7.戦後に高進したインフレも総需要抑制政策によって抑えられた。それは、日本の財政金融政策の建て直しのためにGHQ(連合国総司令部)の財政顧問として来日したアメリカの銀行家ジョセフ?ドッジが中心になって推進したものであるから、ドッジ?ラインとも呼ばれる。

8.占領期の経済改革(三大改革):財閥解体(戦後、アメリカ占領軍は、財閥解体と独占政策によって財閥を解体させ、同系列内の財閥子会社間の競争を含め、企業相互の競争を促進させようとした。)、農地改革、労働改革。

9.朝鮮戦争特需をきっかけとして、日本経済はドッジ?ラインのよる不況を脱しており、生産の拡大によって景気は上向き、長期増産の基礎が出来上がった。この意味において、日本経済は1950年代後期の高度成長期を迎えるための条件が整ってきた。

第2章経済の高度成長期(1955~1973年)

10.日本は、1955年から1970年まで15年間で年平均10%以上の高い経済成長率を実現した。世界からは経済の「奇跡」という評価が生まれていたのである。

11.1954年11月から1957年6月にかけて、日本経済は「有史以来の未曾有の好況」を経験した。これは「神武景気」と呼ばれる。

12.1960年に池田内閣は10年間に国民所得を2倍にしようという所得倍増計画を発表した。所得倍増計画が発表された1960年は、同時に労働運動が春闘方式になった年でもある。春闘は労働組合が年に1回、春季に一斉に団体交渉方式で賃上げを要求することである。

13.「三種の神器」と呼ばれる白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が日本人の初めての生活の豊かさへの追求であった。昭和40年代に入ると、いわゆる「3C」のカー、クーラー、カラーテレビを中心とする花形の耐久消費財への追求が高まる。

14.経済の高度成長期においては、日本の産業構造が大きく変化した。第1次産業の比重が低下し、第2次と第3次産業の比重が上昇した。

15.輸出面において、生産構造の変化に応じ、輸出商品も重化学工業製品に転換した。

16.1950年代の後半から1960年代の前半に至って、労働力人口の雇用比率は41.3%から61.4%へと高まり、完全失業率は2%から4%へと低下し、完全失業者は全国34万人へと減尐した。また、中小企業は若年労働者を確保するために、大企業より高い

賃金を引き上げざるを得なくなり、所得分配の平等化が実現されてきた。

17.日本の高度成長期の要因:高い貯蓄率、豊富な若年労働人口の存在、技術の進歩、日本型経営システムの形成、政府の役割。

18.日本型経営システム:終身雇用制度、年功序列制度、企業別労働組合制度など、労使一体或いは労使協調型の経営がその代表的なものとされる。

19. 日本企業の経営目標は、アメリカ企業が短期的な利潤率を重視するのに対して、マーケット?シェア(市場占拠率)の獲得にあるとされる。

第3章安定経済成長期(1973~1985年)

20.第1次石油ショックの発生:1973年11月、第4次中東戦争の中で、OPEC(石油輸出国機構)加盟国が原油価格を4倍に引き上げ、しかも供給を25%と大幅に減産するという思い切った手段をとった。石油を外交の切り札に使うという政治的決定であったが、世界各国はそのためにインフレと不況が同居する、いわゆるスタグフレーションに陥った。

21.石油ショックが日本経済に与える影響:第1は、交易条件の悪化である。第2の影響は経常収支の悪化である。第3は、狂乱物価の発生である。第4は、低成長期に入ったことである。

22.日本企業の石油ショックへの対応:第1は「減量経営」と言われた経営方針の一つである有利子負債の削減であり、第2は「減量経営」のもう一つの柱、雇用調整であって、第3はエネルギー消費節約である。日本政府の対応:①日本政府は大量の国債を発行し始めた。②金融の面においては、日本企業の海外展開に伴って、外国為替銀行は海外における経営拠点を増設し、拡充して、いわゆる金融の国際化が進んだ。

23.1931年以来の閉鎖経済に対して、1964年4月以降の日本経済を開放経済体制と呼ぶようになった。

24.貿易摩擦発生の原因:①石油ショック後の条件変化への産業調整に迅速に実現し、マイクロ?エレクトロニクス(ME)技術を活用して、日本企業は急速に国際競争力をつけるようになったのである。②日本市場の閉鎖性が指摘されている。(大量の輸出に対して、輸入が尐ないというのは、貿易摩擦発生の主因である。)

25.日米貿易摩擦の激化:第1段階(1968~1972年)は日米摩擦のいわば緒戦の段階である。第2段階(1977~1979年)は、鉄鋼、カラーテレビに火がつき、摩擦の本格化した段階である。第3段階(1980年~現在)は摩擦が全面的に拡大する段階である。

26.激しい貿易摩擦に対して、日本政府は次のような政策をとって対応した。第1は、輸出自主規制である。第2は、海外直接投資の拡大である。第3は、規制緩和である。

27.貿易収支、サービス収支、所得収支、経常移転収支。これら4つの収支を合計したものは経常収支と呼ばれている。

28.1985年に対外純債務国となったアメリカに代わって、日本は世界最大の債権国となった。

第4章バブル経済期(1985~1990年)

29.バブル経済発生のきっかけは1985年のプラザ合意である。1985年9月2日、ニューヨークのプラザホテルにおいて、先進国5カ国(アメリカ、日本、西ドイル、フランス、イギリス)の蔵相?中央銀行総裁が集まり、ドル高是正のための政策協調で一致した。いわゆるプラザ合意である。

30. 市場価格は市場での需要と供給によって決まり、理論価格は資産のファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)によって決まる。バブル経済とは、株式や土地などの資産の市場価格が理論価格(ファンダメンタルズ価格)から長期的に大きく乖離して、

異常に上昇し続ける現象を指す。

31. 「双子の赤字」とは、貿易赤字と財政赤字のことである。

32.円高の日本経済への影響:円高は交易条件の改善に伴う実質所得の増加の効果を持ち、輸入業者や消費者にとって良いことである。しかしながら、円高は輸出を減尐させ、輸出業者に悪い影響を与える。円高であれば、同じ商品でも儲かるお金の量が尐なくなる。従って、利益の減尐によって、輸出業者の経営が困難になって、経済全体に悪い影響を与える。

33.このように、円高になれば、良い面もあるし、悪い面もある。しかし、輸出偏重型の日本経済にとっては、不利の面が大きいと予想されていた。

34.日本政府は円高不況が短期間に終わると予想せずに、円高のマイナス影響を過大に見積もり、誤った金融?財政政策をとったせいで、実体経済に必要以上の貨幣が供給され、お金余り現象、いわゆる過剰流動性を発生させた。

35.バブル経済の発生に対する政策当局の判断:第1に、総合的な判断として、バブル経済発生への警戒感は非常に弱く、またその崩壊が長く日本経済のパフォーマンス悪化を招来するという性格付けでのバブル経済の恐れはほとんど抱かれていなかったといえる。第2に、実体経済のパフォーマンスの良さに確信が持たれていたことは目立つ。第3に、当時の政策当局の政策目標は、景気の維持のほかには物価の安定、対外均衡、そして国際政策協調に置かれていたことである。第4に、1990年年初以降、株価が下落し始め、追って地価も下がってきたが、これら資産価格の下落が実体経済に与える影響は小さいと判断されていた。

36.1987年度から1990年度にかけての企業の動きの最大の特色は、金融市場など外部で調達した資金を再び金融資産として運用するという、金融負債と金融資産の両建て取引を活発に行い、金融の実物に対するウエイトを大きく高めていくことにある。37.バブル経済期において家計は、銀行から借金などをして、金融負債を増加させると同時に、有価証券などの金融資産の購入によって金融資産を増加させた。株や土地といった資産価値の上昇はその保有者の富を高めるのである。これは「資産効果」と呼ばれる。

38.企業や家計の「債務過剰」は、民間金融機構の貸出の膨張と密接に結んでいたと判断される。

39.バブル経済は土地や株に対する異常な投機を発生させ、地価や株価の高騰を招いた。異常な資産価格の上昇に対して、日本銀行はようやく金融の引き締め政策に転じた。バブルの「狂った状態」から覚えてみれば、株価も地価も低下の見通しがもたれた。低下という期待は更に低下という期待を生んで、いわゆる「逆資産効果」によって、バブルは急速にしぼむことになった。

40.バブルが崩壊し始めた年は、平成2年(1990年)であって、これからの長期不況は平成大不況と呼ばれるようになった。

41.強力すぎた金融政策を実施したせいで、後にバブル経済の崩壊、平成大不況という結果を招いた。

第5章バブル崩壊後の日本経済(1990年~現在)

42.1990年代に入り、日本経済は「失われた10年」を経験した。不良債権の処理問題や金融システムの安全性の動揺、更に財政赤字の累増などによって、日本経済が停滞を余儀なくされた。

43.金融機関の不良債権問題が顕在化したのは1992年頃からである。相次いで金融機構の経営破綻に対して、1998年4月から早期是正措置が導入された。これは金融機関

の経営健全化を図るために、自己資本比率に一定の下限(国際的金融機構は8%、はかは4%)を設けるようになった。従って、銀行の貸し渋り現象が進んだ。

44.貸し渋り対策:第1は、1998年11月11日に決定した日銀の流動性供給を拡充策である。第2は、1998年11月16日に決定した政府系金融機構の融資?保証制度の拡充策である。第3は、民間金融機構に対する公的資金の注入である。

45.不良債権の定義は、元々は経営破綻先債権と6ケ月以上の延滞債権のみであった。やがてこれに金利減免などの債権が加わり、1997年度決算からは3ケ月以上の延滞債権も含めるようになった。

46.不良債権の本格的な処理のために、金融再生プログラムの一環として誕生したのが日本版RTC(整理回収機構)である。日本版RTCが設立される前に存在した不良債権の回収機構には、預金保険機構、整理回収銀行、住宅金融債権管理機構の3機構がある。日本版RTCは、住宅金融債権管理機構が整理回収銀行を吸収?合併し、預金保険機構の100%出資の株式会社として1999年4月に発足した。

47.日本的経済システムの変貌:①日本的雇用システムが大きく変貌した。長い間日本的雇用システムを支えてきた終身雇用、年功序列、企業別労働組合には、大きな変化が起こった。②高度成長期を通じて証券市場からの直接的な資金調達より、メインバンクなどからの銀行借入に依存した企業金融パターンも、1990年代に入ってからは内部資金重視へと変貌した。

48.橋本内閣の6大構造改革:金融システム改革、行政改革、財政改革、社会保障制度改革、経済構造改革、教育改革。

49.2001年4月に、小泉純一郎氏が首相に就任した。小泉内閣の構造改革(『今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針』):まず、経済再生の第一歩として不良債権処理の抜本的解決を掲げ、次いで「聖域なき構造改革」の改革プログラムを設立した。小泉改革にとって極めて重要な意味を持つ二つの改革プログラム:一つは2002年10月の金融再生プログラムであり、もう一つは2005年10月に可決された郵政民営化である。

第6章日本の社会保障

50.社会保障制度とは、生活の安定を図るために、国民の最低生活を保障する公的な制度である。

51.社会保険とは、生活上の困難をもたらす一定の事由(保険事故)に対して、保険の技術を用い、被保険者があらかじめ保険を拠出しておくことにより、保険事故が生じた場合に保険者が定められた給付を行う公的な仕組みである。法律に基づき、加入が強制される点に特徴がある。社会保険の種類としては、医療、年金、労災、雇用、介護がある。

52.公的扶助とは、生活困窮者に対し、最低限度の生活を保障するため、国家が一般租税を財源として最低生活費に足りない部分の金品を支給する所得保障制度である。社会福祉の制度とは、障害者や要介護の高齢者など社会的な援護を必要とするものが自立した生活を送ることができるよう、生活面での様々な支援を行うための制度である。公衆衛生及び医療とは、病気を防止し、健康を増進するための地域社会の組織的支援の体系である。老人保健とは、高齢者の健康の保持と適切な医療の確保を図るための制度である。

53.社会保障制度の機能:第1は、社会的安全装置としての機能である。第2は、所得再分配機能である。第3は、経済の安定?成長及び社会の安定に資する機能である。

54.社会保障制度の整備を中心に国民生活の安定、向上に政府が積極的にかかわる国

家を一般に福祉国家という。エスピンーアンデルセンの『福祉資本主義の3つの世界』:一つはアメリカに代表される自由主義的福祉国家(市場重視型)である。もう一つはドイツやイタリアなどのヨーロッパ大陸諸国に代表される保守主義的福祉国家(社会保険重視型)である。三番目はスウェーデンなどの北欧諸国に代表される社会民主主義的福祉国家(普遍主義型)である。日本:保守主義的と自由主義的なものの混合物。

55.日本の社会保障制度の特徴:①社会保険型から普遍主義型へ②医療保険と年金の関係③保険者としての国

56. 社会保険型から普遍主義型へ:歴史的な展開を含めて、日本の社会保障を全体として眺めると、第一の特徴は当初のドイツに代表される社会保険型から出発し、次第に普遍主義型の方向に移行していったことにある。

57.各国の年金制度の二つのタイプ:一つのタイプは、税を財源とする基礎年金方式と呼ばれるもので、イギリスや北欧に見られる。このタイプの基本的な発想は、国民の税負担により、高齢者の生活を保障するというものである。もう一つのタイプは、ドイツやイタリアなどの社会保険方式であり、被雇用者を中心に制度が作られ、基本的に「所得に応じて保険料を支払い、支払った保険料に応じて年金給付を受ける」という仕組みになっている。前者は「所得再分配」としての機能を主眼とする制度であり、後者は「貯蓄?保険」としての機能を主眼とする制度である。

58.日本の年金制度は、「一階に基礎年金、二階に厚生年金(所得比例部分)」という形で、普遍主義的モデル(均一給付の基礎年金)とドイツ型社会保険モデル(職域中心の報酬比例年金)とを折衷したものである。しかも、両者は財源的にも融合しており、更に基礎年金部分はその財源が「3分の1は税、3分の2は保険料」となっている。この税と保険料の渾然一体性こそ日本の年金制度の最大の特徴である。

59. 医療保険と年金の関係:日本の社会保障制度の第二の特徴は、医療保険がまず整備され、年金の整備が遅れたが、年金が急速に膨らんできたというところにある。60.保険者としての国:日本の社会保障制度の第三の特徴は、社会保険の「保険者」に国自身がなったこと、また、非サラリーマン?グループの相対的に多い経済構造の中で、国がその取り込みを積極的に行ったことである。

61.日本の医療費保障制度の最大の特徴は、職域または地域をベースに約5000に分立した公的な医療保険制度により、生活保護を受けているものを除き、原則として全ての国民が何らかの公的医療保険制度によってカバーされる国民皆保険制度をとっていることである。

62.他の先進国に比べて、日本の医療供給体制には、病床数が多く、平均在院日数も著しく長いのに対して、病床あたりの従事者(医者や看護婦)の配置は薄いという特徴がある。

63.一年を標準として定めた金額を定期的に給付する制度を年金制度という。年金制度には、国家に加入を強制される公的年金と、任意設立?加入する私的年金がある。

64.日本の社会福祉システムには以下の特徴がある。第1に、戦前における未整備の後、戦後占領政策の中で英米系の制度が導入されたが、「社会保険の中心に社会保障を組み立てる」との方針の下で公的扶助を含め、極めて限定的な範囲のものとして位置付けられた。第2に、その結果、社会保険の制度が多分に「福祉」的な(低所得者を対象としての)要素を含むと共に、高齢者の中で医療が福祉を引き受ける傾向が顕著になっていった。第3に、急速な高齢化の進展を背景に、高齢者介護システムを含め、迅速な整備と社会保障制度全体の再編成が求められている。第4に、立ち遅れて

きた社会福祉分野が高齢者介護を中心に急拡大している。

第7章日本の財政

65.政府の役割をめぐって、財政は三つの機能を持つ。即ち、資源配分機能、所得の再分配機能、景気調節機能である。

66.財政というのは、企業や家計などの民間部門の経済活動に対する公的部門、即ち地方公共団体を含む政府部門の経済活動である。資金を国民経済の中から調達し、それをまた国民経済へ還元していく政府の経済活動は財政である。

67.通常、財政には、以下の三つの機能がある。第1は、財政の資源配分機能(公共財の提供)である。第2は、財政の所得の再分配機能(貧富の格差の是正)である。第3は、財政の景気調節機能(マクロ経済の安定化)である。

68.日本の財政は、憲法、財政法、税法などの決まった仕組みによって運営されており、この仕組みを財政制度と呼んでいる。予算とは、国の収入と支出の見積もりであり、予め計算するから「予算」というのである。国の予算には、一般会計予算、特別会計予算、政府関係機関予算の三種類がある。

69.1980年代は、日本の財政再建の時代である。国の歳入は基本的には租税収入と公債金収入から成り立っている。日本の国税構造の特徴は、所得税と法人税といった直接税のウエートが大きいことにある。

70.財政構造改革の背景:第1の背景は、財政赤字の膨らみである。第2の背景は、社会保障コストの増加である。第3の背景は、国民の負担率の上昇である。

71.プライマリー?バランスというのは、国債などによる政府の借金の元利払いを除く歳出を基本的に税金で賄う場合の財政収支である。

72.税制改革の方向:改革の方向の一つは間接税である消費税の導入である。税制改革のもう一つ重要なのは、所得税、住民税の累進構造の緩和による減税である。

第8章日本の金融

73.1990年代を通して日本の金融制度は大きく変革され、金融政策の運営も、デフレの深刻化からこれまで想定していない政策を採用せざるを得なかった。

74.金融政策には色々な種類があるが、大きく分けると、質的政策と量的政策に分類できる。質的政策とは、直接に金利を変動させて資金の流れを調整する方法で、その代表的なものが日銀の公定歩合操作である。公定歩合というのは、日銀が取引のある主要な銀行に資金を貸出する場合に適用する金利のことである。量的政策というのは、資金の流れる量を直接にコントロールすることである。日銀が実施する公開市場操作、預金準備率の変更などが代表的な手段である。公開市場操作とは、日銀が短期金融市場に介入することによって、資金の流れを調整することである。預金準備率とは、銀行はその預金の引出に対して現金を準備しなくてはならない制度であり、その率は日銀によって決められている。

75.日本の金融機関は大別すると、日本銀行、民間金融機関、公的金融仲介機関に分類される。日本銀行は、現金通貨(日銀券)を発行できる唯一の主体であり、金融政策を主導したものである。

76.不良債権とは、銀行から資金を借りている企業や個人の返済能力が低下して、貸し倒れとなる可能性が出てきたものである。インフレはモノやサービスの値段が継続的に上昇する現象である。デフレはモノやサービスの値段が継続的に下落する現象を指す。

77. デフレを解消するために、中央銀行は金利の引き下げやマネーサプライの増加といった金融緩和策をとる必要がある。1999年2月に、日銀の政策委員会でゼロ金利政

策が採用されるようになった。ゼロ金利政策が2000年8月に解除されたが、今までも日本は超低金利政策をとっている。

78. 日本の新しい金融制度といえば、まず、財政と金融の分離を象徴する金融庁の発足が挙げられる。もう一つ新しい金融制度としては、改正日銀法による中央銀行の独立性の強化が挙げられる。

79.メガバンクとは大手銀行同士が合併して規模の大きい銀行のことである。厳密的な定義はないが、資産規模が100兆円(1兆ドル)を超える巨大銀行である。

80.1996年11月からの金融大改革を金融ビッグバンと呼ぶ。金融ビッグバンには次の三つの原則がある。第1は、フリー(自由)である。第2は、フェア(公正)である。第3は、グローバル(国際化)である。

日本经济

国民衆院選の政権公約を発表 国民新党は、衆議院選挙の政権公約を発表し、「日本郵政」の株式を売却して東日本大震災の復興財源を確保することや、「教育立国」を目指し、進学にあたって意欲があれば、誰でも利用できる奨学金制度を創設することなどを盛り込んでいます。 国民新党は、30日、自見代表が記者会見で、衆議院選挙の政権公約を発表しました。 それによりますと、「日本郵政」の株式を売却して、東日本大震災の復興財源を確保するとともに、ゆうちょ銀行の資金を活用して、低所得者向けの住宅ローンを創設するとしています。また、「教育立国」を目指し、所得格差が教育格差につながらないよう、大学などへの進学にあたって意欲があれば、誰でも利用できる奨学金制度の創設を盛り込んでいます。 消費税率の引き上げについては、名目で3%、実質で2%の経済成長の達成を条件にすることや、低所得者対策を充実させるとしています。また、「現状のTPP=環太平洋パートナーシップ協定には反対」としているほか、将来の脱原発依存を目指し、運転開始から40年が経過した原発は廃炉にし、新規の建設を見合わせるとしています。 自見氏は「今は中小政党が林立しているが、われわれは国家の羅針盤として、正しい方向を指し示してくることができたと自負している。これからも国民のために、郵政事業の公益性と地域性を高めていきたい」と述べました。 長期金利低下0〃7%を割り込む 東京債券市場は、世界経済の先行きへの警戒感を背景に、午後になって比較的安全とされる日本国債を買う動きが一段と強まり、長期金利は0〃7%を割り込み、およそ9年5か月ぶりの低い水準を、3日連続で更新しました。 長期金利は、償還までの期間が10年の国債の利回りが代表的な指標になっており、国債が買われれば価格は値上がりし、金利は反対に低下するという関係になっています。 このところ債券市場では、アメリカ経済を直面する「財政の崖」や、ヨーロッパの信用不安など、世界経済の先行きへの警戒感が根強く、比較的安全とされる日本国債が買われています。 30日も午後になって日本国債を買う動きが一段と強まり、長期金利は0〃695%と0〃7%を割り込み、平成15年6月以来およそ9年5か月ぶりの低い水準を、3日連続で更新しました。 市場関係者は「世界経済の先行きへの警戒感が根強いうえ、日銀の金融緩和策が今後強化されるのではないかという見方が広がったことも、日本国債を買う動きにつながっている」と話しています。

日本经济分析

“日本制造”被迫瘦身转型 重振辉煌还需新思维 转型方向与模式主要有两种:一种以索尼为代表,趋于“苹果化”,强调硬件与内容的融合;另一种以松下、日立为代表,减少对消费电子的投入,将重心转向新能源、基础设施等领域。“日本制造”曾是金字招牌,在全球风光无限,如今它头上的光环正渐渐褪去。今年2月初,索尼、松下、夏普日本三大电子巨头发布2011财年预亏公告,索尼彩电业务连续八年亏损,夏普创下成立百年来最大亏损额,松下刷新了日本企业的亏损纪录。日立、东芝的利润额也同比下降……这犹如投下一个重磅炸弹,给“日本制造”罩上一层阴影。换帅、业务重组、拓展新领域、部门架构调整、生产方式转变……日本电子企业正进行“二战”以来最大的一次调整。不过,专家认为,已经踏上转型之路的日本企业,如果不采取开放合作的新思维,将很难重拾往昔的辉煌。 收缩、重组与转型 “日本电子企业这一轮变革的关键词是收缩、重组和转型。”帕勒咨询有限公司资深董事罗清启如此认为。 彩电业务是日本电子巨头亏损的重灾区,所以彩电业务“瘦身”是这轮变革的主题之一。 作为全球最大等离子生产商的松下,不得不面对等离子全球份额日渐下滑的残酷现实而缩减产能。去年10月底,松下宣布将三家等离子工厂“三合一”,上海工厂的等离子设备注销,日本两家等离子工厂只保留一家。而鼎盛时期,松下在全球拥有五家等离子工厂。 松下的液晶工厂也转产小尺寸非电视用途液晶面板,2012财年非电视用途占比提高到50%;它还拟将一家液晶工厂转让给由索尼、日立、东芝合资的中小液晶面板生产公司。 原来等离子阵营的另一家企业日立,早已停产等离子屏,并且计划结束65年彩电生产的历史,从今年开始将彩电生产业务整体外包出去。 索尼今年1月正式退出它自2005年起与三星合资的“S-LCD”液晶面板项目,将手中50%的股份转让给三星。索尼立志摘掉彩电业务多年亏损的帽子,甩掉亏损的面板业务已是必然。 鉴于全球经济不景气及面板供过于求的变化,索尼将2012年彩电全球销量的目标从三年前设定的4000万台,下调至2000万台,为此付出500亿日元的额外费用。同时,增加彩电整机生产外包的比例,以降低成本,希望彩电业务在2013财年实现扭亏。 夏普也宣布暂时停掉50%液晶面板的产能,并增加中小尺寸液晶面板的生产比重。 一边在收缩,另一边在重组。

日本经济

4.大所高所から経済を見ると マクロ経済学では、家計?企業?政府の活動を、経済指標などを用いて包括的に捉える ●マクロ経済学とは ミクロ経済学は、個人や企業の個別の行動を分析するものです。これに対し、一国の経済を大きな視点から見て全体像を捉えようとするのがマクロの視点です。 この視点から経済を論じるのがマクロ経済学で、一国の経済を、個人の総体である家計部門、個別企業の総体である企業部門、および政府部門の3つの主体による活動と捉え、経済活動の姿をできるだけ包括的に見ていきます。 それぞれの経済主体の活動を見るには、物価上昇率や失業率、経済成長率、国際収支など様々な経済指標のうごきを捉え、経済理論に照らして分析することが有用になります。 マクロ経済学の性格上、使用する指標は主に集計的な数字で表され、それらの経済指標というモノサジを使うことによって、個々の経済主体や一国全体の経済動向を、数量的に捉えることができるのです。 ●日本政府?日銀は経済全体の調整役 経済活動の中で、それぞれの経済主体は相互に影響を及ぼし合っています。マクロ経済において、日本政府や日本銀行は、失業率を押さえたり物価を安定させるなど、一国全体の経済を良好な状態に導くための調整役となります。日本政府や日銀は、適切な財政?金融政策を通じて、企業や家計などの民間の経済活動を促進させるのですが、その際に国全体の経済の現状を正確に把握する必要があります。そのような全体を捉えるという点で、このマクロの視点は特に重要になります。 たとえば、景気が後退期にあると判断すれば、公共投資の追加や公定歩合などの政策金利の引き下げといった政策をとります。逆に、景気が過熱して大幅な物価の上昇を招くと予想されるときには、政策金利を引き下げることになります。 財政?金融政策をより効果のあるものにするためにも、景気の局面とその原因を正確、かつ早期に分析するのが、マクロ経済学の仕事といえるでしょう。 ●政策選択の余地が減少 日本は近年で、国?地方の借金の合計が、莫大な金額になっています。こうした厳しい状況の中では、財政政策として、日本政府が国債を発行して、さらなる公共投資や減税を行う余地g多少なくなってしまいます。現在、政府に求められるのは、投資先を精査し、国の将来にプラスになるような財政政策をとることといえるでしょう。 また、金融政策を担当する日本銀行としても、政策の選択の余地が少なくなってきています。日本銀行の政策手段としては、公定歩合の操作やコールレートの誘導などがありますが、金利がほぼゼロの現在では、これ以上の緩和は非常に困難です。

日本简介与其经济发展

日本简介与其经济发展 日本简介:日本属于东南亚岛国,与我国近邻,有北海道、本州、四国、九州四大岛和一些小岛组成。日本面积狭小,人口稠密,其中,本州岛人口最多。海岸线曲折,港湾优良。神户、横滨是日本著名的港口。境内多山,平原狭小。关东平原是最大的平原。日本是火山之国,地震之邦。主要是因为日本位于环太平洋火山、地震带上,多火山、温泉以及地震。富士山为最高峰,是一座活火山。季风显著,海洋性强。四周是海,季风气候具有海洋性:冬季较温暖,夏季较凉爽,降水丰沛。太平洋沿岸多台风。日本矿产资源贫乏,林木丰富,森林覆盖率高,山涧河流短促(地形狭隘。丘陵多所致),水力资源丰富。日本既保留着本民族文化的传统,又兼有东西方文化的特点。京都是日本古都和著名文化中心。 经济发展:自1868年明治维新起,日本的经济发展史,是一部以发达国家为目标的追赶史。1968年,日本的国民生产总值(GNP)跃居世界第二位。到20世纪80年代前后,日本不仅在经济规模上仅次于美国,而且在工业技术装备水平、高精尖加工能力、产业结构等方面,均已位居世界前列。战后日本经济之所以能够高速发展,是其固有基础、特殊条件和机遇等多种主客观原因、国内外各方面原因共同起作用的结果。日本充分利用被美国独占和美国将大量加工制造业搬进日本之机,大力吸收美国的资金,学习、借鉴美国的先进工艺、科技和管理经验,并加强

仿制、模仿和创新工作,使日本成为世界上对外国技术、工艺消化、吸收力最强的国家之一。日本经济高度发达,国民拥有很高的生活水平。人均国内生产总值39,731美元,是世界第17位。若以购买力平价计算,国内生产总值位居世界第3位(次于美国和中国;[第四名:印度]),人均国内生产总值是世界第23位。2004年末,日本在海外的纯资产达1.8万亿美元。 日本原料基本靠进口,出口工业产品,对国际市场的依赖程度高。钢铁、汽车、电子、造船、化学、纺织是主要部门。产品质量好,大量出口,在国际市场上占有重要地位。最大的贸易国是美国,其次是亚洲和西欧部分国家。首都东京是世界金融中心之一。 日本渔业发达,捕鱼量长居世界第一位。北海道附近,千岛寒流与日本暖流交汇,浮游生物丰富,故鱼群密集,形成了世界四大渔场之一的北海道渔场。横滨是日本第二大城市和海港。 日本农业单长高,多用小型机械。平原地区多生产稻米,丘陵地区多栽培果树和蔬菜。稻米自给,其他农产品需大量进口。农业在日本是高补助与保护产业,鼓励小规模耕作,而不是美国的大规模耕作。日本也是欧盟最大的粮食出口对象。 日本工业主要分布在太平洋沿岸和濑户内海沿岸的狭小地带,东京、大阪、名古屋和北九州是主要工业区。许多产业在日本是高度发展,包含消费性电子、汽车、半导体、光纤、光电、多媒体、影印机、高级食品。“日本制造”的高品质深植人心,

日本经济发展史(战后)

日本经济发展史(战后)默认分类 2010-01-20 11:25:22 阅读320 评论0 字号:大中小 自1868年明治维新起,日本的经济发展史,是一部以发达国家为目标的追赶史。1968年,日本的国民生产总值(GNP)跃居世界第二位。到20世纪80年代前后,日本不仅在经济规模上仅次于美国,而且在工业技术装备水平、高精尖加工能力、产业结构等方面,均已位居世界前列。这些表明,作为一个历史发展阶段的追赶时代在日本已经结束。以追赶为目标建立的经济体制、生产关系以及经营思想等,面临着深刻的调整。 但是,日本似乎没有意识到大转折时期的到来。它仍然延续过去的政策思想和发展模式,没有注意培育自主开拓发展的能力与机制。大量的过剩资本没有与技术创新和产业创新相结合,而是流向房地产和股市,制造出泡沫经济。由此带来了难以消除的后遗症,如大量的银行不良债权,股市疲软,投资信心不足,消费低迷,巨额财政赤字等,至今困扰着日本经济。 日本经济目前正处在130多年未有的大转折时期,这是由追赶型的经济增长向成熟的、开拓发展型经济增长的转变。这种转折,如同高速行驶的列车进入弯道,行驶速度下降是很自然的事。但是,转折的迟误和泡沫经济带来的严重后果,加大了转折的难度。世界经济的低迷和“9·11”事件的影响,对于日本经济有如雪上加霜。2001年日本出现经济负增长可以说毫不奇怪。 经济增长速度下降有其客观必然性

像日本经济辉煌时期引起世界瞩目一样,日本近10年来的经济低迷,也引起了广泛的关注。其实,日本经济增长速度放缓,有其客观必然性,除了日本正处在转折期之外,还有如下两方面因素。 第一,经济基数的增大。 日本的国土面积不到中国的1/25,总人口相当于中国的1/10,然而日本2000年的国内生产总值(GDP)却是中国的4.44倍。这说明,日本的经济基数已经相当大。按照2000年中日两国GDP的比值来算,如果日本GDP增长2%,中国要在GDP绝对量的增加上与日本持平,就需要有8.88%增长速度。但是,人们却往往认为2%是低速度,8.88%是高速度。产生这种错觉的主要原因在于只看到增长率,没有看到计算增长率的基数是不同的。显然,同样的GDP增加量相对于不同的基数,会有不同的增长率。基数越大,得出的增长率越低。随着经济基数的增大,增长速度下降是一种必然趋势。 1990—2000年,日本实际GDP年均增长率约为 1.75%。同期,在7个主要发达国家中,与日本增长率不相上下的有法国(1.8%)、英国(1.94%)和意大利(1.56%)。公认为经济增长“优等生”的德国,同期的增长率为 2.25%,仅比日本高0.5%。但是,人们并不认为英、法、意经济陷入萧条,却认为日本经济状况不好。其原因可能是由于过去40多年日本经济一直增长较快,

日本经济特点

日本经济特点 日本经济的现实问题牵扯到多个方面。既有经济发展阶段的问题,又有国际经济环境发生巨大变化的问题,还有社会人口方面的问题。从财政层面来讲,中央政府和地方政府债务总和已经超出日本国内总产值50%以上,人均债务约600万日元(约合5700多万美元)。为了挽救经济,日本政府实施了各种行政和财政措施,日本金融机构曾经从事了经济史上无前例的尝试—“定量宽松货币政策”。2004年到2005年间,世界原油价格重新挑战了两次石油危机以来的高值,而日本的国内的物价水平还是处于极低的水平。这说明日本还远远没有从通货紧缩危机中摆脱出来。与此同时,日本的社会结构也正在发生重大变化。出生率降低,人口老龄化,生产性人口比重降低,社会负担增加,年金、医疗等社会保障制度亟待改革。对于进入老龄化的日本来说,消费者对经济发展的重要性不断增强。老龄人口是消费的主力军之一,因为他们掌握着大量的个人金融资产。老龄化社会意味着日本从生产型社会到消费型社会的转变。提供健全的社会保障制度能使辛苦操劳一生的老人们无忧无虑地放心消费。一个衍生效果就是提高整个社会福利,促进经济发展。 战后日本政府的产业政策非常成功,日本企业在世界经济中能够有今天的世界地位与此有关。在日本早已不是“赶超经济”的今天,日本政府虽然几乎已经没有必要重点扶持某个产业,但是,在经济政策的制定和执行上依然贯彻产业一边倒的方针,成为经济发展和稳定的负面因素。日本政府主导的经济政策依然以产业和金融机构为中心,并没有充分考虑消费者的利益。这种产业政策和经济结构可以定义为“生产型”的,在经济起飞或高速增长阶段不会出现什么大的问题,及时在经济增长相对低速的阶段,如果有强大的外需,也还可以持续一段时间。但是,正如上个世纪七、八十年代的日美贸易摩擦所昭示的,没有一强大的国内消费者为支撑的“生产型”经济体制是难以持久的。比日本更为极端的例子是前苏联,实施的不只是一边倒的“生产型”经济体制,并且生产集中在重工业生产,经济发展出现严重的不和谐现象是必然的。 从二十世纪八十年代开始,日本经济内部已经出现了各种不和谐的现象,泡沫经济的重要原因之一就是金融机构没有遵守与监管当局之间的“君子协定”,走向投机。从二十世纪九十年代到二十一世纪,日本型经济结构的负面作用全面显现出来。对此,日本经济当局没有能够及时地调整政策,进行根本性的改革。 日本政府不应该追随凯恩斯主义式的经济政策,而是应该加大社会保障体系的建设,降低市场的不稳定性,彻底放弃“倾斜生产方式”,为经济成员提供公平的竞争平台,建立以消费者为中心的“消费型”社会。这样才能从根本上摆脱当前的被动局面。

日本经济发展史

日本经济发展史 1. 从明治维新到二战结束 1868 年明治维新以后,日本建立了强有力的中央集权国家,开始将赶超西方强国、推进经济增长作为国家目标。但是,可称之为“近代经济增长”的过程实际开始于19 世纪的80 年代后期,其标志是:民间企业开始迅速发展;制造业的产值开始迅速增加;近代的财政、金融体制开始形成;明治初期的经济混乱状况开始改观,至少可能从统计上加以把握。 与西方强国相比,日本现代经济增长的起始阶段的特点是:开始最晚;起点最低;开始之后的增长率最高。美、英、法、德4 国的现代经济增长开始于1850—1859 年。日、美、英、法、德5 国在上述年份或时期的人均GNP分别为136 美元、474 美元、227 美元、242 美元、302 美元(按1965 年美元价格折算)。5 国从现代经济增长至1965 年的GNP 和人均GNP 的年均增长率分别为3. 6%和2.5%、3.6%和1.6%、2.2%和1.2%、2.0%和1.7 %、2.7%和1.7%。 明治政府实施“殖产兴业”的经济政策,自上而下地培育现代产业(例如由政府开办“模范工厂”,然后廉价出售给民间),促使工业化获得了迅速的进展,对追赶欧美先进国家起到了重要的效果。与此同时,明治政府还推行“富国强兵”政策,将工业化与经济增长带来的“国富”用于“强兵”,而不是用于改善国民的生活,终于走上与西方列强为伍、竞相对外侵略扩张的道路。 对外发动侵略战争与进行掠夺成为明治维新以来日本经济获得较快增长的极为重要的原因。例如,在1894—1895 年发生的中日甲午战争(日本人称之为“日清战争”)之后,日本获得了“割地”(台湾、澎湖列岛)、“赔款”(2 亿3150 两白银,相当于3 亿6 400 万日元,而当时的中央政府的一般会计岁出为7 000—8 000 万日元)及在中国开放港口的通商特权。从一定意义上说,获取战争赔款,通过侵占殖民地掠夺国外资源与财富,对日本 实现工业化具有决定性的意义,这也是日本资本主义发展的一个特点。从国内看,明治维新以来日本经济增长与工业化过程得益于明治政府积极推行的对外开放政策,引进了先进的技术和制度;同时,从江户时代(亦称“德川时代”,1603—1867 年)以来日本就十分重视教育,造就了一支质量较高的劳动力队伍,因而,使从国外引进的先进技术与制度能够得到很好的消化。 许多后进国家为了追求现代经济增长,普遍采取了积极引进国外先进技术与制度的政策,但未必都像日本那样成功,其主要原因在于教育落后。日本现代化过程的一个特点是,其义务教育的开始早于现代经济增长的开始,而美、英、法各国的义务教育的开始晚于现代经济增长的开始。因此,日本之所以能实现较快的经济增长,除去依靠明治维新的政治变革与明治政府的强有力的经济政策(这给日本带来了“现代因素”)以外,也是与其重视教 育的“传统因素”的贡献分不开的。 随着工业化的进展,日本在第一次世界大战(1914—1918 年)以后,从慢性的债务国转变为债权国,在经济结构上则从农业国转变为工业国(1918年工业比重超过50%,达到56.8%),虽然工业结构是以轻工业为中心,钢铁、造船、机械、化学等重工业和化学工业

关于日本经济的书籍

关于日本经济的书籍 篇一:理性读一点关于日本的书 中日紧张:理性读一点关于日本的书 发布时间:2014-07-24 11:42 作者:刘大桥 字号:大 中 小 点击: 2046 次 中(大陆)日自 1972 年建设立邦交起一直二十一世纪初,中日两国关系,几乎可以说顺 风顺水, 直到 2008 年 12 月, 中日韩还在日本的福冈签订了中日韩 《三国伙伴关系联合声明》 , 《声明》说:“我们对三国在增进政治互信、加强经贸往来、促进社会与文化交流、扩大财金 合作等方面取得的成果感到满意”。 而且“我们承诺, 在上述成果基础上进一步推进三国合作”。 但是当文件签署不久后的 2012 年 9 月的钓鱼岛国有化事件之后,中日关系急转直下--当然, 我们看到,钓鱼岛国有化事件,只是中日关系急剧恶化的诱因之一--以至到现在似乎到了没有 解的地步。 中日双方都不恳退步, 都剑拔弩张, 而且无论中国还是日本的鹰派人物 (包括政界、 军界、 学界等) , 在 2013 年和中日甲午战争 120 周年的 2014 年里, 叫嚣着说“中日必有一战”。 两国的鹰派,以及由复杂因素导致的两国民粹主义(中国称日本为“右翼势力”),仇华/反日 情绪高张。特别是作为笔者所在的中国一方,我们所见到的,仇日反日情绪在整个社会弥散。 在此过程式,对于大众,甚至对于精英,其实并不十分了解日本的历史、文化,以及军事,包 括这诸方面的常识。笔者冒着被骂的危险,写下这则文字。 一、关于武士道 1900 年, 日本人新渡户稻造则在日本出版了一册介绍和宣扬大和民族精神的书 《武士道》 (张俊彦译、商务印书馆,2012 年)。在中国人通常的政治词典里,“武士道”决不是一个褒义 的词汇,恰恰相反,是一个在中国人见人厌、人见人恨的一个词汇。因为众所周知的是,由于 自 1894 年的黄海之战到 1931 年的九一八事变到 1937 卢沟桥事变,中国和中国人民在日本侵 略者的侵略下,饱受欺凌和杀戮。在这一历史中,“武士道”如幽灵如噩梦般缠绕和弥散在中国 大地和中国人民心中。 或者说, “武士道”一度成了日本侵略者嗜血成性的代名词。 直到读了 110 多年前新渡户稻造著的薄薄一册《武士道》后,才知道,日本大和民族与日本历史的武士及武 士道,并非我原来的认知。 《武士道》开宗明义写道“武士道,如同它的象征樱花一样,是日本土地上固有的花朵。 它并不是保存在我国历史的植物标本集里面的已干枯了古代美德的标本。 它现在仍然是我们中 间的力量与美的活生生的对象”。也就是说,在《武士道》一书的著者看来, “武士道”一词不 是中国词典里“罪衍”的标识,而是日本词典里的美德化身。全书不足十万字,用了十七章来对 此作了阐释。对“武士道”的渊源梳理,整整用了八章,这表明著者对其的历史负责。就在“武 士道”的渊源梳理中,著者声称,日本的“武士道”的渊源来有三,一是从中国传入的佛教、一 是日本自身发展起来的神道,一是孔孟之道。在这三者中尤为孔孟之道是“武士道”的主渊源。 新渡户稻造写道: “至于说到严格意义上的道德教义, 孔子的教诲是武士道的最丰富的渊源。 ?? 继孔子之后的孟子,对武士道也发挥了巨大的权威”。在此总揽下,著者以“义”、“勇”、“仁”、

日本经济的崛起

《日本经济的崛起》教学设计-大兴一中张月春 日期:2009-10-27 教学设计说明: 一、指导思想与理论依据: 新课程强调教学过程是师生交往、互相发展的互动过程。在教学中要处理好传授知识与培养能力的关系,注重培养学生的独立性和自主性,引导学生质疑、调查、探究,在实践中学习,使学习成为在教师指导下的主动地富有个性的过程。因此在设计本课时结合初中学生的特点创造情境、设计问题,带动学生的积极性在愉快的氛围中学习掌握知识与技能。 二、教学背景分析 1.教学内容分析 本课属《历史》(北京市义务教育课改实验教材)第四册的第四单元,叙述的是第二次世界大战后,在科技革命的推动下,日本充分利用各种因素,重视科技教育注重人才培养,经济迅速发展的史实。这段史实对中国的发展借鉴和警示有非常重要的意义。 2.学生情况分析 学生在以往学习的基础上具备了一定的学习历史知识的能力,并且初中学生比较活跃,因此采用了情境创设和讨论等形式不但调动学生的积极性,而且使他们可以较顺利地掌握知识、训练技能。 3.教学方式与教学手段说明 多媒体环境下的情境创设学习和探究性学习 4.技术支持说明 本节课主要利用多媒体演示功能,使用幻灯片和视频增加直观效果。 三、教学目标 1、知识目标: 战后日本改革的内容、战后初期日本经济的恢复、战后日本经济的腾飞。 2、能力目标:

分析和讨论战后日本高速发展的原因,初步培养学生概括历史知识的能力。 3、情感目标: (1)美国对日本的扶植是日本经济迅速恢复的重要原因。 (2)学习日本经济发展的先进经验,为我所用;增强建设祖国的使命。 4、教学重点:日本经济的腾飞。 5、教学难点:日本经济腾飞的原因及其影响。 四、教学过程

日本经济论文

日本经济前途黯淡 日本是一个自然资源贫乏、国土狭小的国家,经济发展的强劲推动力必须来自对外贸易,日本的进口额很高, 但出口额更高,每年都有巨额的外贸顺差,是世界第三大进口国及出口国。经受了海啸、地震、核泄漏等灾害和欧债危机,日元升值等因素的影响,我认为,日本经济的前途并不是很乐观。首先,东南亚洪灾严重的影响日本经济的复苏的起步速度。其次,日本大地震可能导致日本经济加速沉沦的风险上升,还有,对欧债危机的担忧加剧以及日元升值,促使企业削减资本支出,令日本经济复苏刚一起步就遭遇拦路虎。以下,我主要从地震、日元、产业三方面论证我的观点。 1.地震 2011年3月11日,日本东北部地区发生观测史上最大规模的里氏9.0级地震。随之而来的大型海啸给沿岸地区造成毁灭性打击,数以万计的生命被高达数十米的海啸无情吞噬。然而,惊魂未定之时,福岛第一核电站内频频传出的爆炸声更加震慑人心,悄无声息的核泄漏所引发的一场危机令人们的心头笼罩了一层浓重的“核阴影”,更让日本在政治、经济等诸多方面的发展遭遇波折。 地震发生后,震区以及地震波及地带许多产业造成大范围影响。比如,COSMO石油公司位于千叶县市原市的一处炼油厂因天然气储气罐发生火灾和爆炸而被迫停业。电子产业也深受影响。东芝11日宣布,受地震影响,公司关闭了三重县四日市闪存芯片厂。但是对于日本的汽车产业而言将产生巨大影响。不仅产品的排产计划因停产而全部打乱,而且零部件供应商的损失情况尚未明确,直接影响企业的复产。数据显示,2010年,本田日本生产的汽车有30%用于出口,而丰田则有53%的日本产汽车用于出口,日产则有59%的日本产汽车出口。因此,对于灾后重建的评估风险而言,将影响到日本汽车产业的复苏。而从全球汽车产业的布局来看,此次地震有可能成为2008年危机之后,再次对全球汽车产业进行一次重构。 日本大地震造成的损失额将高达16万亿日元,远远超过阪神大地震

日本经济真实状况

日本经济真实状况 来源:作者:都市精靈发布时间:2003-3-10 凤凰卫视中文台《时事开讲》 首播:星期一至星期五23:40 重播:第二天11:00 十一月十五话题: 一、阿富汗局势纷杂莫辩 二、日本经济真实状况 主持人:董嘉耀 嘉宾主持人:何亮亮 董家耀:各位好,紧贴时事,现在开讲。今晚我们来讨论日本经济,另外也会谈到日本对追究大陆的关注。 (阿富汗局势部分略) 董家耀:好的,何先生,谈一下我们今天另外一个主题,是讲日本的经济。你刚去了一趟日本,日本经济这几年都不太景气,你有什么最新的观察。 何亮亮:我在东京出席一个关于中国经济,或者说是中华经济协作系统,就是两岸四地的经济关系的这样一个研讨会。出席的有两岸四地,大陆、香港、台湾、澳门,还有一些海外的学者,有一些日本的学者。 对这个研讨会,日本媒体和日本学者都相当有兴趣,这跟日本近年的经济趋势有关。我参加会议期间,借此机会、虽然不是很深入的、但是也观察了一下日本经济生活的情况,特别是请教了一些在东京的中国的学者,因为他们是用第三个眼睛来看日本的,他们很了解日本的情况,懂日语,又有长期观察,他们比较客观,通过跟他们的交谈以及在研讨会听到的发言,我想对日本的经济会有一个新的认识。 去日本之前,我跟你一样,我们主要是通过媒体的报道来了解日本经济的情况。特别是今年以来,日本媒体上有一种议论,就是觉得日本的经济问题越来越严重了,海外也有这样一些报道。甚至有人说日本的经济崩溃了,因为连续十年不景气,去年跟今年日本的国内生产总值都是呈现负增长,几乎没有增长,给人的印象就是日本的经济状况非常严重。 与此同时,成为最重要的是,最近几个月日本的舆论有关中国崛起,关于中国人民币将成为世界强势货币,中国将成为世界工厂这样的论调越来越多。这个我在日本有亲身的感受。据在东京的朋友说,日本的媒体上,这样的报道这么多是空前的,以前也有,以前比较多的是中国威胁论,比较负面,而且论据不足。现在这个情况倒不是中国威胁论,而是强调中国这种迅速崛起的势头。但是感觉上日本对此是有点担心的。 中国这样一个巨大的市场,而且能够在现在世界经济普遍不景气的情况下,保持7%的增长率,而且中国出口呈现强势劲头。我们开会的时候,中国和东盟达成了一个未来十年将要建成中国——东盟自由贸易区,这样一个消息对日本的刺激是非常大的。因为韩国总统金大中曾经提议,中国、日本、韩国之间可以建立一个自由贸易区,应该说这构想相当的有创意,但是实施起来有很大的困难,特别是韩国和日本对他们农产品的保护,这里面当然也包括日本自己

日本战后经济发展及其特征

日本战后经济发展及其特征 【摘要】二战后日本经济在战争的废墟上得到了迅速的恢复和发展,在相当长的一段时间内实现了经济的高速增长,人民生活水平大为提高,一跃成为世界第二经济强国,被称为“日本经济奇迹”。然而在二十世纪八十年代末日本“泡沫经济”破裂以来,日本经济持续低迷至今。本文从日本战后经济发展轨迹谈起,浅析高速发展的原因及其政府主导型的市场经济模式,进而分析日本经济模式在目前存在的问题,解决的对策及其走势,最后阐述过去无论运作多么良好的经济体制,如果不能随着国内外经济环境的变化而变化,最终会转化为经济发展的桎梏。基于此,本文将对其进行分析。 【关键词】日本经济;日本政府主导的市场经济模式;经济问题;展望 目录 一、战后日本经济发展阶段和经济特征 (3) (一)经济复兴阶段(1945-1955) (3) (二) 经济高速增长时期(1955-1973年) (3) (三) 经济稳定增长时期(1974-1990年) (4) (四) 经济衰退期(1991-2000年) (4)

1.企业生产能力过剩 (4) 2.科技创新的后劲不足 (5) 3.产业结构调整滞后 (5) 4.经济体制调整失误 (5) 5.金融机构存在巨额不良债权 (5) 6.财政危机严重,削弱了政府干预经济的能力 (5) 二、日本市场经济模式 (6) (一) 日本的产业政策 (6) (二) 日本的宏现经济政策。 (6) 1.财政方面日本大部分财权由中央所掌握 (6) 2.金融方面 (6) 3.企业特点 (6) 三、日本当前经济存在的问题 (7) (一)公司治理结构机能的衰退 (7) (二)长期雇佣体制阻碍了企业的改革与重组 (7) (三)主银行制导致企业经营效率的下降 (7) 四、日本经济发展展望 (8) 二战后日本经济在战争的废墟上得到了迅速的恢复和发展,本文从日本战后经济发展轨迹谈起,浅析高速发展的原因及其政府主导型的市场经济模式,进而分析日本经济模式在目前存在的问题,解决的对策及其走势,最后总述过去无论运作多么良好的经济体制,如果不能随着国内外经济环境的变化而变化,最终会转化为经济发展的桎梏。

日本经济

2014.12 日本経済入門期末レポート クラス:日本語师範名前:劉麗惠学籍番号:2012418050 题目1:日本のバブル経済につぃて論述せょ バブル経済とは、概ね不動産や株式をはじめとした時価資産の資産価格が投機によって実体経済の経済成長以上のペースで高騰し続け、投機によって支えなければならない市場が、投機によって支えきれなくなるまでの経済状態を指す。 バブルの崩壊は、不良債権問題の発生を伴う。これは、バブル経済期に時価資産の高騰で膨張した法人金融資産に対して査定が行われ、それを基に返済不可能な融資が行われるからである。 自由な市場取引ではストックの適正価格はつきつめるところ市場参加者の誰にもわか らないため、過剰な期待や失望が群集雪崩を起こし、バブルや恐慌を発生させる。厚生経済においては拡張期には主に物価の高騰、恐慌期には消費や投資の停滞、失業の拡大が問題となる。物価や賃金の統制、経済計画の採用は恐慌の発生を未然に防ぐ有望な手立てであったが、長期的な観点では必ずしも経済厚生を高めるものではなかった。 バブルを引き起こさないためには、株式や土地などの価格変動による売買収益をもくろむ投資行動、とくにオルタナティブ投資を制限する、市場の自由な取引形態を制限し行政府や公的機関が取引ルールに関与する、公的年金資金や中央銀行によるアナウンスメントや介入、政策金利や税制による関与などが行われる。 行政府や議会による公的関与についても政府の失敗の問題があり、バブルの生起を代替するものではない。政策金利や公定歩合はマクロ経済を誘導する強力な政策手段であるが、経済の自然成長率もまた、市場参加者の誰にも分からないものであり、議会の干渉や当局の誤判断により誘導金利と自然利子率とが長期的に乖離することでバブルや恐慌の原因 になることがある。インフレターゲットの議論は人為的な政策金利への干渉をなくせとの主張であるがその有効性が歴史的に立証された段階にはない。 题目2:日本経済の現状から日本経済の今後につぃてどぅ思ぅか論述せょ。 日本と世界各国の間の貿易は、日本にとっても他の国にとってもよ重要な意味を持っている。 アジアの国々にとっても、日本は重要な貿易相手国となっいる。2006年には、中国、韓国、タイ、マレーシアにおいては、日本からの輸入が世界の国々の中で最も多くなっている。貿易依存度とは、一国のGDPまたは国民所得に対する貿易の割合を示すものである。日本は一般に貿易依存度の高い国だと思われるが、ヨーロッパ諸国などの他の国々に比べると、日本の貿易依存度が遥かに低いということがわかる。輸出量の増大に伴って、他国との貿易摩擦の歴史だといえるほど、1960年代以降、特にアメリカとの間に通商摩擦が激しくなってきている。これらの貿易摩擦に対しては、日本側は輸出自主規制や国内市場の開放などの対策で解決を図ろうとしていたが、貿易の不均衡が解消されない限り、その効果はあまり上げられないだろうと思われる。 WTOとFTAの下に、貿易自由化や、貿易と環境問題、貿易と労働基準、貿易と競争政策などが新しい課題として残されている。 循環型社会の構築に当立っては、政府、企業、国民それぞれの役割分担は大切である。まず、政府の役割としては、循環型社会の構築を支援させる環境インフラの整備が重要である。 また、国民の役割分担について关連法の中には、製品を長期間使用し、再生品の利用や廃

日本経済

序章日本の経済規模とその課題 1.日本はGDPなどフローの面でも、国富などストックの面でも、さすが世界有数の経済大国である。 2.尐子高齢化社会が進むにつれ、次の問題が発生してくる:第1は、社会保障制度の危機である。第2は、労働市場の変化である。第3は、金融にも影響がある。 3.経済学では、ジニ係数を使って一国の所得の平等さを測っている。ジニ係数は0~1の間の数値であり、0は絶対平等、1は絶対不平等を表す。0.4は不平等の警戒線であり、それ以上に鳴ればなるほど、所得格差が大きくなる。 第1章敗戦からの経済復興(1945~1955年) 4.戦後の日本経済を復興期、高度成長期、安定成長期、バブル経済期、バブル崩壊以降の時期に分ける。 5.終戦直後の日本経済には次のような特徴がある:第1は、食糧不足の深刻化である。第2は、大量失業者の発生である。第3は、インフレーションの高進である。 6.厳しい経済情勢に直面する日本政府は、経済危機緊急対策として、1947年初めからいわゆる傾斜生産方式を打ち出し、物資需給と資金需給計画を取り入れて、重要産業への傾斜的な物資と資金供給を行い、縮小再生産に陥る危機を打開する政策をとった。 7.戦後に高進したインフレも総需要抑制政策によって抑えられた。それは、日本の財政金融政策の建て直しのためにGHQ(連合国総司令部)の財政顧問として来日したアメリカの銀行家ジョセフ?ドッジが中心になって推進したものであるから、ドッジ?ラインとも呼ばれる。 8.占領期の経済改革(三大改革):財閥解体(戦後、アメリカ占領軍は、財閥解体と独占政策によって財閥を解体させ、同系列内の財閥子会社間の競争を含め、企業相互の競争を促進させようとした。)、農地改革、労働改革。 9.朝鮮戦争特需をきっかけとして、日本経済はドッジ?ラインのよる不況を脱しており、生産の拡大によって景気は上向き、長期増産の基礎が出来上がった。この意味において、日本経済は1950年代後期の高度成長期を迎えるための条件が整ってきた。 第2章経済の高度成長期(1955~1973年) 10.日本は、1955年から1970年まで15年間で年平均10%以上の高い経済成長率を実現した。世界からは経済の「奇跡」という評価が生まれていたのである。 11.1954年11月から1957年6月にかけて、日本経済は「有史以来の未曾有の好況」を経験した。これは「神武景気」と呼ばれる。 12.1960年に池田内閣は10年間に国民所得を2倍にしようという所得倍増計画を発表した。所得倍増計画が発表された1960年は、同時に労働運動が春闘方式になった年でもある。春闘は労働組合が年に1回、春季に一斉に団体交渉方式で賃上げを要求することである。 13.「三種の神器」と呼ばれる白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が日本人の初めての生活の豊かさへの追求であった。昭和40年代に入ると、いわゆる「3C」のカー、クーラー、カラーテレビを中心とする花形の耐久消費財への追求が高まる。 14.経済の高度成長期においては、日本の産業構造が大きく変化した。第1次産業の比重が低下し、第2次と第3次産業の比重が上昇した。 15.輸出面において、生産構造の変化に応じ、輸出商品も重化学工業製品に転換した。 16.1950年代の後半から1960年代の前半に至って、労働力人口の雇用比率は41.3%から61.4%へと高まり、完全失業率は2%から4%へと低下し、完全失業者は全国34万人へと減尐した。また、中小企業は若年労働者を確保するために、大企業より高い

相关主题
相关文档
最新文档