日语专业论文-「芥川龙之介の芸术観」

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日语专业论文-「芥川龙之介と『仙人』」 最终

日语专业论文-「芥川龙之介と『仙人』」 最终

芥川龍之介と「仙人」作者紹介芥川龍之介1892年3月1日 - 1927年7月24日、日本の小説家。

号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号(はいごう)は我鬼(わが)。

そもそも新原家の子であった。

11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父芥川道章の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。

辰年辰月辰日辰刻の出生なるを以て(もって)龍之介と命名した。

芥川龍之介は中小学生のとき、中国の「西遊記」や「水滸伝」(すいこでん)などを読むことが好きでした。

家族のみんなも読書がすきだから、芥川の幅広く読みあさることに深く影響を与えました。

芥川は中国と日本の文学作品を読んだだけでなく、西洋の文学も好きだった。

特に、イプセンの「人形の家」の作家である。

芥川は一生150でぐらいの短編(たんぺん)小説を書いた。

仙人三篇も書きました。

(未完のも含める)こちらの三篇の仙人はそれぞれに芥川の創作の初期、中期、晩期を貫いた。

作品の特徴:芥川龍之介の作品は、初期と晩年でかなり違うと言われる。

初期 (1916~1920) 歴史物説話文学を典拠(てんきょ)とした「羅生門」「鼻」などの歴史物、加えてキリシタン(天主教及信徒)物が有名である。

日夏耿之介(ひなつこうのすけ)は初期の作品を「非常によい」と評価していた。

歴史物では、人間の内面(うちづら)、特にエゴイズム(個人主義)を描き出したものが多かった。

中期(1920~1924) 現実への考え芸術至上主義的な面が全面に出た「地獄変」などを書き、長編「邪宗門」(じゃしゅうもん)に挑(いど)んでいた。

晩期(1925~1927) 死亡の陰死亡の陰に包まれていた。

自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死(しょうじ)に関する作品が多く見られた。

初期より晩期の方を高く評価する見解(けんかい)も示されていた。

「一(いっかい)塊の土」など、これまでと比べ現代を描くようになるが、台頭(たいとう)するプロレタリア(贫民)文壇にブルジョア(市民)作家と攻撃されることとなった。

日语论文『今昔物语』と芥川龙介

日语论文『今昔物语』と芥川龙介

『今昔物語』と芥川龍之介今昔物語集『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)とは平安時代末期に成立したと見られる説話集である。

全31巻。

ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。

編纂当時には存在したものが後に失われたのではなく、未編纂に終わり、当初から存在しなかったと考えられている。

また、欠話・欠文も多く見られる。

『今昔物語』は便宜的な略称。

インド・中国・日本の三国の約1000余りの説話が収録されている。

『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事から由来している。

成立『今昔物語集』の成立年代と作者は不明である。

年代11世紀後半に起こった大規模な戦乱である前九年の役、後三年の役に関する説話を収録しようとした形跡が見られる(ただし後者については説話名のみ残されており、本文は伝わっていない)事から、1120年代以降の成立であることが推測されている。

一方、『今昔物語集』が他の資料で見られるようになるのは1449年のことである。

作者作者についてはっきり誰が書いたものであるかは分かっていない。

『今昔物語集』を『宇治大納言物語』を改訂増補強したものと考える場合、作者は宇治大納言源隆国と考えられる。

だが、その説はほぼ否定されている。

他にも、南都北嶺といったところに所属していた僧侶が作者という説がある。

また、この説についても一介の僧侶が個人的な理由で書いたのか、またはその時代の天皇である白河天皇の庇護下にあった何名かの僧侶によって書かれたのかなど様々分かれている。

奇説としては『俊頼髄脳』を著した源俊頼とする説もある。

だが、どの説も想像の範囲を超えず決定打に欠けている。

芥川龍之介『羅生門』と今昔物語『羅城門』共通のあらすじ羅生門で若い女の髪を引き抜く老婆を見た男が、老婆から衣服を奪い取る話。

相違点長さ物語の大枠登場人物長さ今昔は2本合わせても2ページ弱、芥川は8ページ強。

分量だけ見ても、現在の著作権法でさえ問題のない引用・参照と言える。

罗生门三稿正文

罗生门三稿正文

はじめに芥川龍之介は大正時代における優れた作家で、新現実主義の代表的な作家であり、短編小説を得意とする。

周知のように、「芥川賞」は日本文学界における最高の賞である。

芥川龍之介の短編小説は、歴史題材の作品でも現代題材の作品でも、上品な言葉、きめが細かい心理描写、巧妙な分布で彼の独特な芸術風格を表す。

彼の短編小説は題材が幅広い、構想も巧妙で,思想内容も深刻である。

それらは、芸術の風格を有した、清新なものであり,その技巧には深い造詣が見られる。

主人公の心理描写を通して、人間の複雑で込み入っている思想意識を反映する。

これは芥川龍之介の作品のもっとも大きな魅力である。

そして、芥川は作品を通して、当時の社会を描き出す。

一『羅生門』の創作背景(一)創作の時代日露戦争(1904年2月―1905年9月)に勝利した日本は、広大な植民地と半植民地を持ち、東アジアにおける最強の帝国主義国となった。

1907年7月、ロシアと満州、モンゴリアに於ける勢力範囲分割の秘密協定を結び、その後も、1910年、1912年秘密協定を改定し、日本の勢力範囲の拡張をロシアに承認された。

当時の日本は勢力が非常に強大だと言える。

しかし、1907年の恐慌以来、本格的な好景気に戻ることはなかった。

重税と高い小作料と低賃金とのため、国民の大多数を占める農民と労働者は極めて貧しく、国内市場は余りにも狭かった。

そして過大な軍事費と植民地支配費のために、国家財政はほとんど破産しそうであった。

1914年の外債の残高は十九億八千万円、同年の租税収入の6倍を超え、その利払いにも困った。

貿易は入超つづきで、正貨の現在高は連年減少し、兌換制度維持にも苦しんでいた。

この経済状況を背景にして、民衆は閥族打倒、軍備拡張反対、廃税、減税の要求を持って、官僚、軍閥政府を攻撃して止まず、民衆運動も盛んになった。

大正時代(1912年―1926年)の世界は、第一次世界大戦(1914年7月―1918年11月)が起こった時期でもあり、その結果として敗れた帝国が続々と解体され、共和制国家が多数成立した。

日语专业论文-『罗生门』について 最终

日语专业论文-『罗生门』について 最终

羅生門について王芙蓉万丽维黄依贝姜祥峰戚梦婷背景について羅生門は芥川龍之介によって書かれた(歴史)小説であり、大正4年、「新思潮」に柳川隆之介の名で発表された。

彼が当時23歳の時である。

彼は当時つらい失恋(祖父母による反対で失恋)をした。

そのため彼は、現実とかけ離れた愉快な世界が書きたかったと語っており、この作品がそうであったのではないかとされている。

一見、この作品のどこが愉快なのかと疑問に思う人も少なくないだろう。

彼は恋人である吉田弥生という女性と祖父母の反対を振り切り、本当なら駆け落ちすることもできたはずである。

しかし、昔は親が決めた家ごとの結婚がほとんどだった。

(世間)そして自分は、その逆らった生き方ができなかった。

その点から下人には、自分と違った(世間に逆らった)生き方をとらせたかったため、下人を世間に反した(盗人)という道を小説の空想の中に歩ませたのではないかと考えられている。

下人の心情の変化羅生門の下・・・飢え死にはしたくないが、盗人になる勇気は出ない。

はしごの上・・・6分の勇気と4分の好奇心怖い物見たさ死体の髪の毛を抜く老婆を見て・・・あらゆる悪への反感雰囲気に流された正義感楼の上、組み伏せた直後・・・達成感安らかな得意と満足老婆のいいわけを聞いて・・・盗人になる勇気が出る=門の下で欠けていた勇気下人という語の使用盗人→交野の平六→下人と3回語を変えた。

芥川龍之介は下人という語を使う前、実は、交野(かたの)の平六と言う名を使おうとしていた。

また、初めは盗人であったのを交野の平六と変えたのは、極限化における人間の心理(人間の選択)を描くためで、その後下人と変えたのは、匿名の方が人物が特定されず、その人物へ感情移入しやすいためである。

羅城門を羅生門とした理由普通は羅城門を羅生門と名前を変える必要はない。

しかし何故、芥川龍之介はわざわざ変えたのか。

それは「生」を意識した作品が書きたかったからだろう。

芥川龙之介曾说琐事作文

芥川龙之介曾说琐事作文

芥川龙之介曾说琐事作文最近,我在阅读芥川龙之介的作品时,看到他提到琐事这个主题,唉呀,我心里就琢磨着:琐事真的得抛开。

可是现实生活中,琐事就是我们每天都要面对的“大甲虫”。

就拿我身边的朋友们来说吧,简直是个活生生的琐事博物馆,光是琐事就能写个系列小说。

有一天,我和我的好朋友阿明坐在咖啡馆,正喝着咖啡聊天。

突然,阿明一脸严肃地说:“你知道吗,今天早上我家洗衣机坏了,结果我不得不手洗一堆衣服,真是要命!”我忍不住笑了:“你手洗衣服?你是要以此挑战你的人生极限吗?”“哎,别说了,那感觉就像是上了一堂洗衣课!”阿明无奈地叹气,“我心里想着,洗衣机不就是为了让我们迎接生活的快乐吗?结果…反而跟我作对。

”“哈哈,就你这手洗的风范,跟洗衣机的速度根本没法比!也许你应该给自己设个奖:如能连续洗完十件不皱的衣服,就请自己吃顿大餐。

”我笑着提议。

“真是个好主意!那我得拍个洗衣“运动视频”,然后播给大家看,看看谁的洗衣技巧更高超。

”阿明说着,眼睛闪烁着异样的光芒。

就在这时,旁边的一位女士,可能是被我们的对话吸引,插嘴道:“你们俩不仅有趣,还很有创意啊!有了那段视频,估计会红遍网络,称你们为‘洗衣王’!”“嘿,洗衣王听起来不错哦!”我调侃道,“不过我可不想当网红,这太累人了。

”“对,琐事本来就够多了,干嘛再给自己加戏!”阿明顺势应和,眼神中透露一点争辩的火花。

我们一顿笑闹之后,阿明又开始分享他的琐事:“其实,我最怕的不是洗衣服,是每次出门忘带钥匙。

上个月就发生过一次,很尴尬!”“哎呀,这种事情真的很糟糕。

”我表示理解,“不过,我有个解决方案,买个智能门锁,手机一刷就开,谁还记得带钥匙!”“真是聪明!”阿明竖起大拇指,“不过如果门锁也坏了,我怕那才是真正的灾难。

然后我又得重温手洗衣服的经历……”话说到这里,我们不约而同地笑了,忽然发现生活中的琐事,的确让人苦恼,但通过幽默的交流,它们也变得轻松有趣起来。

最后,我和阿明总结道:“其实,琐事就像沙子,从你指缝间滑过。

芥川龙之介——文学的烟火_初中作文

芥川龙之介——文学的烟火_初中作文

芥川龙之介——文学的烟火本文是关于初中作文的芥川龙之介——文学的烟火,感谢您的阅读!“人生不如一行波德莱尔”,你是否遇见过将此句作为座右铭的古典文艺青年,却曾将它当作一个人之性格的写照。

殊不知这是芥川龙之介一生的写照。

近代日本古典文学的璀璨之星芥川的成名作《罗生门》是一篇古典短篇小说,它相当于一把钥匙打开了芥川的创作之门,主要讲的是在很短的时间里、很小的地点中,描绘了两个乱世中的毫无前途老年妇女与选择苟活的男人之间的故事。

本篇极大意义上嘲讽了当时资本主义疯狂发展而处于混乱中的日本,从而讽刺了人性的罪恶,收到了社会的广大反响,人们开始关注着这位才华横溢的青年。

《鼻子》将芥川对古典的透视力再次展现了出来,使他受到了大文豪夏目漱石大力赞赏,因此,他的关注者开始飞速上涨。

关于古典,不得不说一下取材于中国古代、富含神话色彩的《杜子春》了,它主要讲述的是杜子春为了有所修为而铭记仙人的教训,最后在父母在地狱濒死时不得不违反修为规则的故事。

此篇讽刺了那些为了名利而放弃自己最宝贵的东西——亲情的人。

芥川的古典风格犹如热潮一般,在日本迅速流行起来,甚至出现了许多效仿的文章。

现代的低潮,欲绽放的艺术之花古典的迅速发展后,芥川尝试将古典文转化为现代文,众多文章中,出色的大幅减少,唯独人物刻画有名的《毛利先生》比较出彩,宗教现代文《南京的基督》隶属上等文。

此阶段将近占了芥川写作生涯的二分之一,此时的芥川过上了安逸的生活。

文学之花的绽放与死亡天生体弱多病的芥川在最后的创作阶段患上了许多疾病,加上母亲遗传的精神病,使他意识到自己的生命已经到了最后阶段,严重时,他的眼前甚至会产生幻象。

在此阶段,他创作了中篇小说《河童》,描述了一个封建又神奇的河童世界。

《海市蜃楼》则介绍了他眼中的幻想世界。

此时,他的大多数作品显得无比压抑,奇特的风格使创作再次受到了人们的追捧。

最后,芥川继《地狱变》,在遗作《一个傻子的一生》中,将自己对艺术的热爱与毕生奉献艺术的观点再次点明出来,“人生不如一行波德莱尔”就是最鲜明的写照。

从《戏作三昧》看芥川龙之介的艺术至上主义论文

从《戏作三昧》看芥川龙之介的艺术至上主义论文

从《戏作三昧》看芥川龙之介的艺术至上主义论文至上主义:现代主义艺术流派之一,二十世纪初俄罗斯抽象绘画的主要流派。

创始人为卡济米尔·谢韦里诺维奇·马列维奇。

19世纪末20世纪初,西方一些新的艺术流派像野兽派、立体派、未来派等诸多支流交错起伏,这些流派的发展促使俄国前卫艺术的产生。

于此同时,俄国境内即将爆发1917年十月革命,在这个动荡不安的年代,俄国人民对于推翻传统旧制度的急切心理,也进一步加快了俄国前卫艺术流派的孵出。

以下是店铺今天为大家精心准备的:从《戏作三昧》看芥川龙之介的艺术至上主义相关论文。

内容仅供参考,欢迎阅读!从《戏作三昧》看芥川龙之介的艺术至上主义全文如下:【摘要】芥川龙之介的作品无论从题材上还是内容上总会给人以特殊的冲击力。

追求艺术至上主义可谓之芥川作品的一贯主题。

其代表作之一《戏作三昧》中,为读者清晰地阐明了他对艺术的理解和感悟,是芥川开始思索何为真正的艺术以及开始探索艺术至上主义的先驱之作。

以《戏作三昧》为中心,探讨芥川对艺术至上主义的追逐历程,对于理解芥川龙之介的文学作品及其创作有重要意义。

一、创作动机大正六年(1917)十月二十日至十一月四日,芥川龙之介在《大阪每日新闻》上发表十五回名为《戏作三昧》的连载小说。

除了之前发表过的《道祖问答》和《貉》之外,《戏作三昧》是他的第三部报刊小说,因前两部作品都是登载一回而终,《戏作三昧》可以说是芥川发表连载小说的初次尝试,不言而喻,这部作品是他的苦心之作。

《戏作三昧》取材于?庭公篁村的作品『马琴日记抄』,小说通过江户时代后期小说家曲亭马琴《南总里见八犬传》(后简称《八犬传》)创作过程中某一天所遇到的人和所发生的事展开。

曲亭马琴从文化十一年(1814年)开始执笔创作《八犬传》,在中途历经家境贫困、创作颈瓶、质疑、失明等种种困难之后,由马琴口述,由儿媳来代笔,最终于天保十三年(1842年)八月完成了最后一卷,为这部历时二十八年的鸿篇巨著画上了圆满的句号。

芥川龙之介作文

芥川龙之介作文

芥川龙之介作文
你知道芥川龙之介吗?那可是个超级有趣又有点“怪”的家伙呢。

再说说他的风格,那可真是独树一帜。

他不喜欢长篇大论地跟你讲大道理,而是把那些深刻的思想就像藏小糖果一样,藏在故事的各个角落。

你得自己去慢慢找,慢慢品,等你找到的时候,就会有一种“哇,原来是这样”的惊喜感。

他的描写也很细腻,就像一个超级细心的画家,一笔一笔地勾勒出那些场景和人物。

读他的文字,你就感觉自己好像走进了他所描绘的那个世界,能闻到空气中的味道,能感受到人物的喜怒哀乐。

不过呢,芥川龙之介这个人感觉有点悲观哦。

他看世界好像总是透过一层灰色的玻璃,在他的故事里,美好常常是短暂的,而丑恶却像野草一样疯长。

也许是他所处的那个时代让他这样的吧,毕竟那时候的社会也有很多黑暗的角落。

但不管怎么说,他这种对人性和社会的悲观态度,也让他的作品更加深刻,就像一杯苦咖啡,虽然喝的时候有点苦,但过后却能让你回味无穷。

我觉得芥川龙之介就像是文学世界里的一个神秘侠客,他带着他的笔,在人性和社会的江湖里闯荡,留下了一篇篇精彩绝伦的故事。

他的作品就像星星一样,虽然有些黯淡,但却永远在文学的天空中闪烁着独特的光芒,吸引着我们这些好奇的读者去探索、去思考。

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芥川龍之介の芸術主義の表現
―――「仙人」と「秋」をめぐり
調べてみると、芥川の文学が漱石を母とし、その文学が形成されたのがわかった。

芥川龍之介が尊敬している夏目漱石さんが、自分作品「草枕」について、そのような話があった。

「私の『草枕』は、この世間普通にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。

唯だ一種の感じ--美しい感じが読者の頭に残りさえすればよい。

(中略)さればこそ、プロットも無ければ、事件の発展もない」。

そのプロットの問題について、『草枕』の路線を継承したといわれる芥川龍之介は晩年、志賀直哉の「話らしい話のない」心境小説を肯定し、それまでのストーリー性のある自己の文学を完全否定する。

また、芥川は谷崎潤一郎と「プロット論争」という大喧嘩をしていたらしい。

以上、その時期における芥川文学の紹介を見ると、彼の文学に対する理論と態度が垣間見える。

芥川の理論では、文学が現実の再現ではありえなく、言葉の表現そのものが芸術である美なのだ。

これはどうのように理解すればよいだろう。

今回私たちが『仙人』を読んだうえ、また他の作品にも結びつけ、彼の小説が教訓的なものや社会倫理とも切り離されたではないか、芥川が感情を含めず、客観性を重視しながら述べていたという感じが出てくる。

つまり、そうすべきだ、そうしてはいけないというような明確な結論や評価を示していないことだ。

例えば、『仙人』の中、医者夫婦に対する道徳的で、教訓的な指摘がなく、ただ物語を述べるだけである。

『仙人』の中に「狡猾な」という言葉が明らかに書いてあるので、多分この文章の旨は「悪」を指摘し、批判するものではないと思う。

悪を批判することより、伝説物語である面白さ、また結局のま仙人がだれであることを示唆するという曖昧な書き方の方は、『仙人』における芸術性であるだろう。

伝説物語と言えば、もう一篇の芥川の小説を思い出した――よく知られた『桃太郎』だ。

芥川による桃太郎が明らかな悪い者で、ただし文章の旨が桃太郎の悪行を批判するわけではないと思う。

逆な視点で読んだら驚いて、おもしろいと賞賛せずにはいられない文章だ。

そういう悪い役が明確で、粗筋も簡単な物語は、道徳的な意味よりよほど文章の趣や言語的な表現に工夫された。

それでは、『仙人』のような伝説物語風の小説とまるきり違い、心理写実小説と言われる『秋』(1920)を見てみよう。

その中も、いくつか似ているところがあると考えている
*あらすじ:
『秋』は姉妹と従兄の三角関係の物語である。

姉である信子は、妹の照子(てるこ)が従兄の俊吉に恋をしていることに気付き、俊吉を手放し、別の相手と結婚した。

その後、照子は俊吉と結婚した。

しかし、信子の結婚生活は徐々に幸福でなくなってきた。

翌年の秋のある日、信子は妹の新居を訪問したが、信子は幸福そうな妹が羨ましかった一方、照子は夫と姉の仲良い様子に嫉妬していた。

最後退去した信子は、妹とは永久に他人になってしまった心もちがした。

ふと町を歩く俊吉を見たが、信子は声をかけるのをためらい、過ぎていきました。

ざっと読むと、いかにも芥川は信子がそうすべきではないという主張らしいが、確かにそうであるだろうか。

まず、信子と俊吉の相愛が友達の目によって見られるものだ。

原文の中に「同窓たちの頭の中には、何時か彼女と俊吉との姿が、恰(あたか)も新婦新郎の写真の如く」と書いてあるのだ。

そういう第三者の目を借りて書く方法は、『仙人』の冒頭にも見られるのだ。

「皆さん。

私は今大阪にいます、ですから大阪の話をしましょう」。

どうして第三者の立場に立ち、文章を進めるのは、事柄や意味を構築しやすいためであるだろう。

それは作者自身の態度が出ておらず、読者の主観に任せるという客観的な書き方であると思う。

結論から見ると、『仙人』には、「なんでも淀屋辰五郎は、この松の雪景色を眺めるために、四抱えにも余る大樹をわざわざ庭へに引かせたそうです」、『秋』では「信子はうすら寒い幌の下に、全身で寂しさを感じながら、しみじみかう思はずにゐられなかつた。

」と書いている。

両方とも、芥川が書き方に深く工夫したと感じた。

読者を想像させ、その想像する余地を読者に与える書き方だと思う。

また、芥川が懐疑で厭世である人物から考えれば、彼は人間には悪が自然に存在するという考えをもっているだろう。

悪においては、その両方にも書かれている。

『仙人』の中に「狡猾な医者の女房」という直接な描写に対し、『秋』には「信子は残酷な喜びを感じながら」という描写がある。

簡素な書き方で書かれた『仙人』から感じがたいかもしれないが、『秋』では、自己犠牲の意識が強い信子にも、セルフコンシャスがつい出てくることが時々現れた。

『秋』に関する先行研究には、意識し得ないものの探求への志向を強めていたという指摘のようだ。

「あなたのように馬鹿正直では、このセち辛い世の中に、御飯を食べることもできはしません」とそういった医者の女房と、「あんたがよければ私がどうでもいいのだ」といった信子は、ある程度自分が悪いことしていると思わないだろう。

ただ、そういう本能的に潜めている悪の下に、期待していた結果が出てこない。

そのため、権助が医者の女房の予想外で仙人になったと書いてある。

なぜ『秋』を選ぶのかというと、まず時間的に、芥川の作風と芸術観における転換点が大正八年と大正十二年という二つの年であるという指摘がある。

『秋』と『仙人』が全部その間に創作された。

『秋』が現代の写実物語なので、実生活に近く、すこし芥川の心境が覗き見えるかもしれない。

また、『秋』に対して、みんなの読みや感触がかなり違うことに驚き、みんなが違う角度でも、踏みこんで読むことができる。

一層芥川の語りの多様性は見事で理性表現の仕方を感じた。

芥川はやはり自分を隠して、態度を隠して、読者の解釈を広げようという文学における芸術観ではないかと考えている。

(悪に対しては、明らかな非難より、無力感を覚える方が相応しい。

)。

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