中国文化と日本文化の比较
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中国文化と日本文化の比較
中国から日本にきて、宮崎産業経営大学で学ばれ、非常に優秀な成績で卒業。
卒業式の答辞を読まれた女性、沈景華さん(仮名)の卒業論文を掲載させていただけることになりました。
この論文「中国文化と日本文化の比較」は、われわれ日本人が日ごろ気づかない、日本的文化の特徴や、われわれの知らない中国での習慣や文化の違いについてとても示唆に富んだ内容のすばらしい論文です。
うちの会社内でも回し読みをしているのですが、掲載許可をいただきましたので、長文ですがプリントアウトをして是非じっくり読んでみてください。 (プリントアウトする際は、ブラウザーのページ設定から「文字を黒色にする」を選択してください)
沈さんは、現在宮崎市内で貿易関係のお仕事をされ、ビジネス面でもすばらしい才能を発揮されています。
この論文に対するご意見・ご感想等を、掲示板やメールでお寄せください。 なお、ご本人の希望により仮名で掲載しております。
2 中国文化と日本文化の比較
宮崎産業経営大学経営学部 経営学科
氏 名 沈 景華(仮名)
目 次
序 論
第一章 言 語
第一節 丁寧語の表現法
第二節 ボカシの表現法
第三節 漢字と中国文化
第四節 漢字文化とカナ文化
第二章 慣 習
第一節 食文化について
第二節 飲酒文化について
第三章 風 俗
第一節 生活習慣
第二節 義理人情
結 論
序 論
私は五年前に中国の西安市より日本に来た留学生です。 来日したとき日本語についての知識は全然なく、勿論一言も喋る事は出来ませんでした。 ただ、その時思ったのは、同じ漢字を使う民族だし「同文同種」の間柄であろうとの親近感はありました。 たしかに日中両民族は歴史的にも民族的にも「同文同種」であることには違いないのですが、来日して色々なことを学び、見たり聞いたりする度に今日の日中両民族は「同文同種」というには少し違っているのではないかと考えるようになりました。
私の育った西安の慈恩寺の大雁塔は、石と泥で固めた重量美であるのに対して、日本の寺の五重の塔や三重の塔は、木造建築の空間的な軽量美を庭園との調和において見事に生かした創造であって、けっして中国の模倣文化ではない、日本寺院の建築美を見ることが出来ました。 中国の寺と日本の寺の景観は、同じ大乗仏教の系列にありながら、どうしてこうも違うのだろうかと思いました。
日本は中国文化の粘液質的な重厚美から、日本的に理想化された部分を上手に料理して取り出すことに成功したのでしょう。 日本の寺に見られる枯淡、繊細、優美、それに静寂は、やはり日本独自の創造であろうと思いました。 そしてそれは単なる建築美学上の相違だけでなく、文化の違いに大きく起因しているのではないかと考えました。 そこで中国文化と日本文化を比較して見ることで両国の文化の違いを考えて見ようと思いました。しかし、まだ経験の浅い私の知識でのことですから、難しい文化論などとてもできませんので私が体験したものに基づいての文化比較論とさせていただきます。
第一章 言 語
第一節 丁寧語の表現法
顔を見ただけで、中国人と日本人をうまく見分けられる人がほんとにいるだろうか。 男も女も同じような服装になって、とりわけ若い人になると男も女も背が高く大根足どころか女でも外股で歩くこの時代に、中国人と日本人の区別がはっきりつく人は少ないでしょう。日本人の中には、誰が見てもこれは日本人だという風貌の人もいますが、中国人と全く区別のつかない顔立ちの人もたくさんいます。 同じ事が中国人についても言えます。 見るからに日本的な風貌の中国人もいれば、いかにも中国的な顔立ちの日本人も山ほどいます。 だが、それは顔を見た限りのことです。 その人に二言、三言、何か喋らせたら、たちまち何国人かはすぐにわかってしてしまいます。 なぜならアクセントと表現法が違うからです。 最初、日本も中国も同じ漢字を使用する国であるので、私は大きいな違いはないと思っていました。 しかし、実際日本に来てみると中国の場合は漢字の一つ一つに意味があり、その字を見るとどう言うことかすぐに判ります。 それに比べて日本の場合はそうではないものが多々あります。
ひらがな文字の意味についてはなかなかわかりにくく、特にカタカナ、それも外国語をカタカナで表現するものに至っては、全然何の法則もないので、私共にとっては一番難解な文字です。 しかし、これは 3 考えようによっては日本人はよそからの色々な外来文化を自分流にカタカナに変えることでいつの間にか自分のものにしてしまうと言う日本独特の外来文化吸収法の一つとも言えるのでしょう。 この点が中国と大きく違うところでしょう。
中国にも丁寧語はありますが、中国の丁寧語には一定の法則があり覚えるのには別段苦労しません。 私が日本に来て一番最初に苦労したのは「お」を付ける言葉と付けない言葉の違いでした。
丁寧語(敬語)には「お」を付けなさいとまず教えられましたので、アルバイトをしている店でお客様に「お三階へどうぞ」と言いましたところ、皆が笑い出しました。 私は二階を他人が「お二階」と言うので当然三階もお三階でいいと思いました。 そこで「お」を付ける場合と付けない場合を教えて貰いました。 「お野菜」「おねぎ」「おいも」「おなす」はありますが、「おほうれん草」「おかぼちゃ」「おトマト」「おキャベツ」「おもやし」とはいわない。 短い音節のものに「お」を付け、長いものには付けないのかと思うと必ずしもそうでなく、「おだいこん」という同じ根菜でも大根には「お」をつけるが、ニンジンやごぼうには付けない。
なんらかの法則があるのだろうと思い色々考えて見たが、ますますわからなくなりました。 海産物で言えば「お魚」「お刺身」とは言うが「お鯛」「おマグロ」など個々の魚に「お」を付けることはない。 調味料は「お醤油」「お味噌」「お酢」「お塩」「お砂糖」とは言うが「お胡椒」「お唐辛子」「おスパイス」とは言わない。 料理は「おにしめ」「おすまし」などは言うが「お茶わん蒸し」「お焼き物」とは言わない。「おそば」とは言うが「おラーメン」とは言わない。 このように法則性がまるでないため結局丸暗記で一つ一つ記憶するしかないと悟りました。
丁寧語の失敗では「君」「きみ」という言葉であります。 中国語で「君」は相手を尊敬する言葉ですので「君」「君」と言われたので、わたしに気を遣って丁寧に言ってもらったんだと思い、お客さんに「君は何を食べますか」と言ったら店の主人から「何を言うのか」と注意され、また先の「お」を付けると丁寧と思っていたので、料理をお客さんの前に出すときに私は丁寧にと思って「お前にすみません」と言いましたらお客さんがふきだしビックリして私の顔を見ますので私も不思議な顔をして相手を見ました。
また、こんな事も経験しました。「すみません」または「ごめんなさい」もひとつの丁寧語なのだと言うことに気付きましたが、最初に言われたときはビックリしました。 よく日本人は「すみません」「ごめんなさい」と言います。 何でもないような時に相手が「ごめんなさい」と言います。 私はビックリして「えっ、この人はどんな悪いことを私にしたんだろう何?何?」とビックリして考え込んでしまいましたけれども、それは単なる挨拶のようなもので丁寧に言われたとの事でしたが、私には悪くないのにすぐ「すみません」とか「ごめんなさい」と言う言葉を出すことが理解できませんでした。 しばらくすると、そういう言葉は、私たちが日常生活をして行く上での一つの潤滑油としてお互いがスムーズに生活して行く上の生活の知恵とも言うべき言葉なのだと分かりました。
あやまることは自分が悪いからであって、あやまれば賠償間題がからんでくるので、欧米社会ではなかなかあやまらないのが通常ですが、日本の「ごめんなさい」「すみません」という丁寧語は自分を一歩下げてものを言うやり方でお互いの関係をより良くするのに役立っていると考えられます。 本当に日本の丁寧語は難しいと思います。
第二節 ボカシの表現法
漢字が共通だと言っても、それを用いた表現のしかたは日本人と中国人では大きく違います。 中国人の大袈裟な表現の例として「白髪三千丈」がよくあげられます。 この李白の詩は、愁いの深さを表現するために白髪が三千丈にもなってしまったと言っているわけですが、日本にはこういう表現法があまりないようです。 しかし、日本語でも「暑くて死にそうだ」と言うような言い方もあるにはあるようです。
中国語にはこうした言い方が沢山あります。 「累死了」(ひどく疲れた)「高興死了」(大変嬉しい)「急死了」(ひどくあせる)といったように。 これでは何回も死ななければなりません。 中国人はほめるときは天まで持ち上げますし、非難するとなると徹底的に悪口を言います。 どちらにしてもそれをそのまま受け取るようなことはありません。
日本の弔辞は中国人から見ると悲しみの気持ちがもうひとつこもっていないように思われますが、考えてみると中国の弔辞はあまりに美辞農句過ぎてこれもまた気持ちがこもっていないのかなと考えるようになりました。 中国人から見て違和感を感じるのは日本人の曖昧な「ボカシ表現法」です。 「結構です」といわれるのは「サンキュー」なのか「ノーサンキュー」なのか非常にわかりにくい。先日ある先生が講 4 義の中で「この説は正しい」といわれ、続いて「と言ってもいい」と付け加えられましたが、その次に先生は「のではなかろう」と言い、次に力強く「か」と言い添えられました。 そして最後に「と思われる」とさらに付け加えられました。 私は頭の中が真っ白になって一体これは何なのだと、呆然としました。
「ボカシの表現法」では断言しない言い方が沢山出て来ます。 この断定しない言い方を好むのも日本人独特のものではないでしょうか。 例えば「あなたはどちらにお住いですか」との問いに「はい宮崎の方です」と答えます。 宮崎に住んでいるのに「宮崎の方に」と方角で答えます。 質問する方も「どこにお住いですか」と聞くべきなのに「どちらに」とはっきり言わない。 あるいは「コーヒーでも飲みませんか」という言い方も日本人にとってはごく普通の言い方です。 この「でも」を付けることによって言い方がたいへん柔らかくなると思います。 「コーヒーを飲みませんか」と言うと飲み物はコーヒーに限られてしまいますが「コーヒーでも」と言われると「紅茶を飲んでもいいんだな」と言う具合に幅が出て来ます。
日本人の論文を読んでいますと「こうなのではなかろうか」とか「こうなんじゃないかと思われる」と言う文章がたいへん多く目に付きます。 欧米や中国ではこう言う方はあまりしません。 「こうだ」とはっきり言います。 このようにはっきり言わない「ボカシの表現法」が日本人には多くあります。
「遊びに来てくださいね」日本人は心からそう思ってなくても平気で人をさそいます。 私ははじめて会って一寸話をしただけの人から「じゃあまた遊びに来てね」と言われてビックリしました。 名前だけで住所も全然わかりませんし、また相手も自分の住所を説明しません。 「何だこれは?」と思いました。
しかし、これも「ごめんなさい」の発想と同じ挨拶程度の「ボカシの表現法」なのだと判りました。 同じように近所のおばさんに「こんにちは」と挨拶したら「どちらまで」と言われてビックリしました。 どうして私がそのおばさんに私の行くところを説明しなげればならないのだろうと不思議に思いましたが、これも日本人のくせで、挨拶がわりの「ボカシの表現法」で相手は別にこちらの行く先を本当に知りたいと思っている訳ではなく、こちらも「はい一寸とそこまで」と言っておけばいいのだと言う事を教えてもらいました。 このように日本人にとってお互いの生活がスムーズに流れるためにはこのような「ボカシの表現法」が大きな役に立っている事を勉強する事が出来ました。
第三節 漢字と中国文化
いま日本ではカタカナ文化が氾濫していますが、これはいわば第二次の外来文化であって、第一次の外来文化は古代朝鮮を経由したか、あるいは直接に日本に渡ってきた中国文化でしょう。 早い話が毎日飲むお茶も中国が原産です。 中国南方では「茶」を「テ」と発音します。 これが南まわりでヨーロッパにいって「ティー」となったと勉強しました。 また、中国の北方では「チャ」と発音します。 これが北からロシアや中央アジアに渡り「チャイ」となりました。 そして日本はそのまま「チャ」「茶」になりました。
食品で「胡」がつくのは西域から中国を経由して日本に入って来たものです。 「胡椒」「胡麻」「胡瓜」などは皆そうです。 また、草花の名前で中国伝来のものは非常に多くあります。 桃、栗、柿、梅などはいうにおよばず、百日紅、合歓などもそのまま同じ文字です。 目で見、手でさわれるものだけではない、精神の世界でも中国の文化は日本に大きな影響を与えていると思います。
「論語」「老子」「史記」など中国の古典の影響は大きなものがあると思います。 日本の元号の「平成」も史記のなかの五帝本紀に「内平らにして天成る」を参考にして作られたと聞いています。 中国の古典から出て、いまは日常語になっているものも沢山あるようです。 例えば「自己啓発」の「啓発」は「論語」の「啓せずんば発せず」をちぢめたものです。 「完璧」や「四面楚歌」は「史紀」に出て来ます。
習慣のなかにも中国伝来のものは少なくありません。 「端午の節句」七夕、立春、冬至等々沢山あります。 漢字は日本のカナと違い文字自身一つの完成された文化ではないでしょうか。 一字一字の意味があり、その成り立ちにも理屈があります。 男と言う字は田の中で力一杯働く姿を表したものであり、「嫋」と言う字は弱々しそうな女が美しく見えるようを表現しています。 水の中で弱ってしまったのが「溺」で、日本人は更に弱る魚に鰯(いわし)という字を作ってあてました。 このように、その一字一字に物や現象の本質をとらえて作られたものが漢字であり、それ自身完成度の高い文化であると考えます。
中国人は漢字のもつ文化を非常に高く評価していると思います。 中国人は何千年の歴史の中で自分達こそが世界の文明の中心に位置しているという「中華思想」を、私は意識はしませんが、受けついで来ているのではないでしょうか。