日本语教育でことばと文化をどう考えるか日本早稻田大学细川英雄
日本语教育能力検定试験

言語と心理
化·地域】
主 要 項 目(基礎項目) 1.世界と日本 (1)諸外国·地域と日本 (2)日本の社会と文化 (1)異文化適応·調整 2.異文化接触 (2)人口の移動(移民·難民政策を含む。) (3)児童生徒の文化間移動 (1)日本語教育史 (2)日本語教育と国語教育 3.日本語教育の歴史と現状 (3)言語政策 (4)日本語の教育哲学 (5)日本語及び日本語教育に関する試験 (6)日本語教育事情:世界の各地域,日本の各地域 4.日本語教員の資質·能力
日本語教育の核 など
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新たな合格者像
日本語教育の スタートラインに立つための 知識·能力を備えた人材
多様な現場に対応するために,その核となる ○基礎的な知識を体系的に有する。 ○基礎的な知識を実践と関連づける能力を有する。
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出題範囲における基礎項目
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基礎項目の抽出
言語一般 社会 文化 地域
言語と教育
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言語と心理
言語の学習や教育の場面で起こる現象や問題の理解·解決 のために,次のような視点と基礎的な知識を有し,それら と日本語教育の実践とを関連づける能力を有していること。
·学習の過程やスタイルあるいは個人,集団,社会等,多様な視点から捉えた言 語の習得と発達に関する基礎的知識 ·言語教育に必要な学習理論,言語理解,認知過程に関する心理学の基礎的知識 ·異文化理解,異文化接触,異文化コミュニケーションに関する基礎的知識
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背景③
国内の日本語学習者数の推移 高等教育機関以外の学習者の増加(国内)
大学院·大学 高等専門学校
一般の施設·団体
「平成20年度国内の日本語教育の概要」 平成20年11月1日現在 文化庁文化部国語課より
日本语作文教室_15 今までで一番がんばったこと

15今までで一番がんばったこと私が一番がんばったのは、小学校二年生のときから高校の二年のときまで、ずっと続けた新聞配達だ。
10年間、僕は一日も休まなかった。
僕の家はお父さんがいなくて貧しかったので、お母さんを助けるために新聞配達をした。
朝刊はいいのだが、夕刊配達のときは学校の友達と会うので、それがとても恥ずかしかった。
でも、そんなことにもだんだん慣れてきた。
新聞配達で一番嫌なのは雨の日だ。
新聞を濡らしてはいけないので、大変だ。
一番辛いのは冬の寒い日だ。
自転車のハンドルを握っている手が、まるで氷のように冷たくなり、動かなくなる。
一番うれしかったのは、中学三年生のとき、新聞少年として市長に表彰されたことだ。
今振り返ってみると、新聞配達をした10年間が、僕の自身になっているのだと思う。
少しぐらいことがあっても、負けない強さを作ってくれたと思う。
時間の流れは早い。
日本に来て、もう2年になった。
思えば、今までの人生で一番がんばったのが、この二年間だったように思う。
ずっと両親の下で育ってきた僕は、日本に来てはじめて一人暮らしを始めた。
炊事洗濯や掃除も、全部自分でしなかればならない。
アルバイトもしなければならない。
しかし、これは僕だけでなく、他の留学生も同じ境遇だ。
僕の初めてアルバイトは洗い場だった。
腰は痛くなるし、店長にうるさく言われるし、何度もやめようと思った。
だが、周りの留学生もがんばっているじゃないか。
僕は「負けないぞ」と自分に言い聞かせた。
アパートに帰って、疲れた身体に鞭打って机に向かった。
しかし、気がつくと、いつも寝てしまっている。
大学受験が近づくに連れて、焦りの気持ちも強くなった。
幸い大学に合格できた。
未来がどんな風景なのかわからないが、「一歩歩けば、一歩先が見える」(魯迅)と言う言葉を胸に、これからもがんばっていこうと思う。
(留学生Yのスピーチ原稿より)1.~てはいけない◆焦ってはいけません。
日本语の敬语から见る日本人の人间関系

日本語の敬語から見る日本人の人間関係1.はじめに敬語は言語現象の中で最も社会とかかわりの深い現象であり、コミュニケーション円滑に進める上で重要な役割を果たしている。
そして、敬語は敬意を表し、すなわち、敬意表現を体現するのである。
敬意表現とは、コミュニケーションにおいて互いに尊重の精神に基づき、相手や場面に配慮して使い分ける言葉遣いを意味する。
しかし、日本語では、敬語詞の数が多いし、表現形式がさまざまな対象に比較的固定した体系を持っているので、日本語の最も大きな特色として広範的に使われている。
それで、敬語の分類は敬語の重要性などの認識に最も必要である。
日本語の敬語は日本社会の人間関係にどんな重要性があるか。
本文は以下のう点に着目して日本語の敬語の人間関係に対する重要性を探究する。
第一章:日本語の敬語の歴史と由来1.1敬語が平和な歴史をもたらした。
明治以前の上位者は、コミニュケーションのたびに、神の地位にまつりあげられることになって、寛容にならざるをえず、下位者の言うことを聞き入れたために、上下の理性的な交流が可能になりました。
敬語がなければ、この固定された身分?階級の上下の人々は、互いに意志疎通することができません。
敬語を使って交流したからこそ、日本人は互いのことをよく知り合い、平和な歴史を歩むことができたのです。
上下の人間関係において、下から上に使う敬語を「階級遵守語」といいます。
この用法は日本独特で外国には見られません。
日本人が現在でも、自分の要求を通そうとするとき本能的に下になろうとするのは、敬語を使う下位者になって相手を上位者にまつりあげてしまうと、相手はその願いを聞き入れざるを得ない心理になることを、歴史的に知っているからにほかなりません。
日本人は目の前で頭を下げている相手を糾弾することはできないともいえますね。
逆に言うと、日本社会において、頭を下げるのが嫌いな人は、多くの要求を受け入れざるを得ないと覚悟したほうが1.2敬語の由来(生む背景)言語は社会文化の縮図であるが、すべての言語現象においては、敬語は社会現象と一番密切なつながりを持っている。
日本语教育における日本语文法

日本語教育における日本語文法学習者にとって、最初日本語に接す時は皆簡単だと思ってしまう。
しかし品詞の種類が増え、それぞれ「活用」しているような変化があり、ますます難しく感じる。
日本語の品詞はたくさんある。
それに、細かく分類することができる。
分類法により、品詞を分類する方法も様々である。
よく知られているのが、学校文法の品詞分類である。
最初に単語を自立語と付属語に分かれる。
そして、それぞれを活用するものとそうではないものに分かれる。
最後に箇条下記でそれぞれに当てはまるものを分類する。
例えば、形容動詞は単語の自立語の中の活用するものに属する。
助詞は付属語の活用しないものになる。
このような分類は、ネイティブ学習者、つまり日本人学生にとっては馴染みのあるものが、外国からの学習者にとってはかなり理解しにくい分類方法になる。
なぜなら、この品詞分類は、橋本文法の分類方法をそのまま使ったからだ。
このような古典なものを持ち出しても、外国人学習者がお手上げしかない。
というわけで、日本語教育で使われている品詞分類は他のものになった。
代表例としては、品詞名イコール用法という分類方法である。
分かりやすい例として、形容詞を取り上げよう。
語尾に「イ」が付いている形容詞は「イ形容詞」と名付けられ、「ナ」が付いている形容詞は「ナ形容詞」になる。
その他、動詞は動作を表す品詞で、疑問詞は疑問を持ち出す品詞である。
品詞の分類ができれば、それぞれについて説明することができる。
学習者にとって、特に初・中級の人にとって、動詞は一番身につけにくいものだと考える。
それに、日本語の分の中心としての述語は殆ど動詞になっているため、これから、動詞を中心として、日本語の文法を分析しよう。
橋本文法の動詞の分類表を使うと、外国人学習者に対して不明な部分がいくつかがある。
「終止形」と「連用形」など、名前の概念はその一つだと考える。
日本語学について心得のない学習者はおそらく上級レベルになっても分からないままだと考える。
高级日本语3伊豆の踊り子

• 第5課 伊豆の踊り子 • 川端 康成(1899年- 1972年)は、日本の小 説家。大阪府大阪市の生れ。東京帝国大学 文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文 藝時代』を創刊し、新感覚派の代表的作家と して活躍。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山 の音』『眠れる美女』『古都』などの「日本の美」 を表現した作品を発表し、1968年(昭和43年) に日本人では初となるノーベル文学賞を受賞 した。1972年、満72歳で死去。
高級日本語3
練習(二): 1.最近ちょっと肝臓が悪くしばらく養生すると連 絡してきたので、お見舞いするつもりでいって みると、彼は薄暗い部屋であぐらをかいて酒を 飲んでいた。肝臓を患っている様子はどこにも ない。 2.冴え冴えとした月光を浴びながら、つづら折 の山道を頂上まで一気に上った。どこからとも なく子犬が私の後ろからチョコチョコとずっとつ いて来た。
高級日本語3
8.「私」は踊り子の身を案じ、特に踊りなどを職 業とする「卑しい」身分で軽視されているため に、一般人以上にいじめられやすいから、なお 心配する。それで騒ぐなどの物音がやむと、 踊り子の行動が分からなくなるから思わず宴 席を監視したくなるほど心配になった。 9.①踊り子がすぐに自分の座布団を外して、裏 返しにそばへおいた。 ②茶店の婆さんが私を別の部屋へ案内して くれた。
高級日本語3
③「あんなもの、どこでとまるやら分かるもので ございますか、旦那様。お客があればあり次 第、どこにだって止まるんでございますよ。今 夜の宿のあてなんぞございますものか」 ④「私たちのようなつまらないものでも、御退屈 しのぎには成りますよ。」 ⑤一時間ほど休んでから、男が私を別の温泉宿 へ案内してくれた。
高級日本語3
中国の中高校日本语教育における教科书について

中国の中高校日本語教育における教科書について中国教育学会外国語教学専業委員会張国強一、中国の初等・中等教育における外国語教育の概要1.1950年~1960年1949年10月1日、新中国が誕生しました。
建国後から60年代後期までは、中等教育における外国語教育はロシア語を中心にして、行われていました。
その原因は、新中国の最初の経済政策は戦争で破壊された国民経済を回復させることで、元ソ連という国からいろいろな援助をもらって、「すべてはソ連に学ぼう」というスローガンが提出されていたからです。
また、その時代のソ連政府は世界の社会主義のリーダーとして、各分野の多くの専門家を中国の各地域に派遣して、技術指導・人材養成などを進めていました。
中国の指導者の毛沢東は「共産党党内においても、共産党党外においても、古い幹部・新しい幹部・技術者・知識人・労働者の大衆と農民の大衆は誠心誠意ソ連に学ばなければならない。
全国でソ連に学ぶ運動を巻き起こして、私達の国家を建設すべきだ」と、呼びかけました。
「国民全体がロシア語を学ぶ」と言える時代になってしまいました。
それで、ロシア語のできる人間を育てることは重要視され、多くの中高校がロシア語という課程を設置して、ロシア語教育は最盛期になり、ロシア語教師を養成する短期間研修教室などもどんどん作られました。
英語教育をやめて、ロシア語教育を始める中高校も増え、英語課程設置の中高校はだんだん少なくなりました。
また、多くの英語教師もロシア語の勉強に励んで、ずいぶん苦労しました。
ロシア語教育と英語教育を同時に行う学校もあったが、少なかったです。
その時代に、中国の黒龍江省のハルピンのロシア語教育は一番盛んで、中国のロシア語教育の揺りかごとも言われました。
1950年~1960年の時期では、日本語課程設置の小中高校は一つもないと判断できます2.1961年~1966年20世纪60年代の初め、中国は元ソ連との外交関係が段々悪化してきたので、ロシア語教育ブームの時代も終わり、ロシア語課程設置の大学も中高校もだんだん減少してきました。
日本の教育5

(3)职业技术教育
• 公共职业培训:公共职业培训是社会上 办的职业技术教育。是国家和各都道府 县根据“职业能力开发促进法”(修改 后的“职业训练法”)而设立的公共职 业训练,对社会上准备就职的人员进行 的职业技能训练和对已经就职者进行的 职业能力开发和提高技术的训练。这种 训练可分为五种类型:
(3)职业技术教育
8.1 教育の目的をめぐる問題 8.2 教育の内容をめぐる問題 8.3 教育の方法をめぐる問題 8.4 教育の行われる場をめぐる課題 8.5 学校教育をめぐる問題 8.6 こどもや若者のあり方をめぐる問題
• 概要 • 日本における「教育」は、単に学校教育という狭い意味 に留まらず、家庭教育や社会教育(生涯教育)などもそ の意味に含まれる。 • 教育の理念 • 教育の概念 • 日本語の「教育」の語源である「教」は「励まし模倣させ ること」、「育」は「こどもが生まれること」又は「こどもを 養うこと」を意味している。この語が日本で用いられるよ うになったのは江戸時代からと言われており、それ以前 の日本や中国では「教化」という語が用いられていた。 教育の目標 • 日本では、儒教の伝統を引き継いで、個人の学びや教 育それ自体に高い価値を置く傾向がある。その意味で、 いわゆる「教育熱心」であるとされてきた。それとともに、 生活全般において社会の道徳規範を身につけることを 重視することから、社会秩序の維持も教育目的の一つ として認識されることが多い。
• 教育制度的発展 • 日本自古以来就是一个传统文化与尖端科 学技术融为一体的国家。自明治维新以来, 日本对教育就十分重视,1947年,日本通 过了教育基本法和学校教育法,为日本的 教育奠定了坚实的法律基础。为了实现教 育机会均等,还制定了六、三、三、四制 学校教育制度,即小学(六年)、中学 (三年)、高中(三年)及大学(通常四 年)。另外还成立了短期大学,学制为2— 3年。不少大学还设立了大学院、研究院, 提供高级研究课程。
日本文化の开放性と主体性について

日本文化の主体性の三つ目は、その融合性が挙げられる。外来文化を吸収する中で、日本は機械的にそのまま外来文化を吸収しただけではなく、強い融合性を示した。日本は、外来の文化に対して改造と融合とを行なった上でそれを日本化した。日本は、漢字の改造を通して、日本の文字を作った。つまり、漢字の草書を基礎として平仮名を作り、楷書を基礎としてカタカナをつくった。また、大陸から伝来してきた仏教に対して改造を行い、日本の固有思想を中心に取り入れ、「現世仏教」を作った。また、中国から儒学思想を取り入れたが、本来は「仁」を中心とした儒学の思想を、「忠」を中心とした日本儒学に変え、天皇制に利用された。
キーワード:日本文化;開放性;主体性;継発性
摘要
中国文化是原生的、自创的文化,而日本文化则是继发性的、吸收性的文化。日本文化的继发性、吸收性带来了日本文化的开放性和主体性。而且,重视传统文化的日本文化有着很强的调和色彩和融合的特征。日本文化及其形成可以用融合二字来概括。日本文化并非只有一味的吸收先进的外来文化的开放性,同时有对外来文化的消化、改造使之日本化的主体性。日本文化对外来文化的吸收并非单纯模仿,而是在考虑现实需要及其可能性的基础上去选择性地学习的。可以说日本文化同时具有主体性特征。
关键词:日本文化;开放性;主体性;继发性
日本文化の開放性と主体性について
はじめに
東洋の文化は多く印度や中国にその源を持つものであるから、日本文化が東洋文化の一部である以上、印度や中国の文明と共通面の非常に多いことは申すまでもない。しかし、そういう共通面よりさらに進んで、日本だけに固有な文化の性質を観察することは極めて興味あり、かつ重要なことである。
内藤湖南(ないとうこなん)が「日本文化の根源を知るには、中国文化を理解しなければならない」というように、日本文化の起源は、中国から伝わったものにある。漢字·医·易·史書·律令·美術·建築などは中国から日本に伝わったのであり、仏教も中国を通って日本に入ったのである。
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日本語教育でことばと文化をどう考えるか早稲田大学大学院日本語教育研究科教授細川英雄1.ことばと文化の関係言語を学ぶためには文化の理解が必要というのは、おそらくだれでもが持っている常識なのかもしれません。
たとえば、日本語を学ぶためには、日本文化の知識が必要で、それが日本人の行動の仕方やものの考え方を理解することにつながる、という解釈は、それこそ多くの人たちに共通な現象だろうと思います。
しかし、本当にそれでいいのだろうか、という問いを、わたしは日本語を教えはじめてからずっと心に抱きつづけてきました。
この問いは、日本語教育において日本文化をどう捉えるか、という問題であり、日本語と日本文化の結びつきを考えることでした。
そして、それは、文化とは何か、という問いであるとともに、言語教育全体のことばと文化の関係を問い直すことでもあったのです。
2.「日本人らしさ」の日本語教育戦後から70年代ごろまでの日本語教育は、構造主義の影響を色濃く受けた「構造シラバス」と呼ばれる考え方が一般的で、文法を初級から積み上げていくという方法がとられてきました。
これは、日本の英語教育が長く採用してきた方法で、ことばの運用よりも、知識を重視し、構造を学習することで、その言語を知るという方法だといってもいいと思います。
文化の問題は、文学、歴史、建築、宗教など、主にそれぞれの分野の専門家に任されていました。
言語教育論としてこのころ紹介されたのが、池田摩耶子『日本語再発見』(三省堂新書1977)という本で、当時まだ新しい分野であった外国人のための日本語教育への導入として注目を集め、人気を呼びました。
池田は、日本語ネイティブ教師の立場から、日本語教師は言語学的知識とともに、日本文化に対する複眼的視野を持たなければならないと説き、母語話者としての内からの視点と同時に日本語学習者としての外からの視点を持つために、日本の文化を意識すること、学習者の文化を学ぶことが必要としています。
そして、外国人に日本語を教える際、文法や音声、表記などと同等に、日本語の背景にある日本人の発想や観念などにも、十分な注意を払わなければならないと述べています。
日本語が日本の文化として生まれて来た産物である以上、日本語の教育はすなわち日本の文化を外国人に教えること、すなわち「日本人らしさ」をどう教えるかであるとする考え方です。
3.予備知識としての「日本文化」80年代に入ると、コミュニケーション能力が問題にされるようになり、ことばを知識としてではなく、運用能力をつけようという考え方が一般的になってきました。
これは、コミュニカティブ・アプローチという考え方によるものです。
経済大国ニッポンの隆盛の影響もあり、学習者数が急増し、「文化」の問題も専門家だけに任せておくわけにはいかなくなったわけです。
学習者のニーズとしても、伝統的な日本の歴史・文学よりも、もっと現代的な、また日常的な日本人の生活の実態を知りたいという要求が強くなりました。
この考え方を明確に示したのが、ネウストプニー.J.V『外国人とのコミュニケーション』(岩波新書1982年)です。
この考え方は、アメリカの社会学者ハイムズの理論を元にしたもので、コミュニケーションには対象の国の社会・文化を知るための「社会文化能力」が必要という考え方に基づいています。
この立場では、「概念・機能シラバス」という考え方とも連動し、モデル・パターンを示すという方法がとられることがしばしばあります。
たとえば、ロールプレイなどのタスクを利用し、そのタスクをこなすことが実際の場面に役立つとしています(これは現在でも最先端の実践のようにして紹介されることがありますが)。
ここで問題なのは、日本語を理解するためには、日本人の行動様式やものの考え方を知り、それを実際のコミュニケーション場面の予備知識とする考え方です。
たしかに、日本人の行動パターンは、統計的な調査等によって示すことはできても、日本人すべてがそのように行動するわけではありません。
また、日本人の思考方法といっても、具体的に日本人すべてがどのように思考するのかというようなことはわかるはずはありません。
あくまでも傾向や特徴という形で示すことはできても、それ以上のものにはなり得ないからです。
ここに予備知識を用意するという発想そのものに問題があることになります。
4.「個の文化」への視点これまでは、社会という集団を1つの固定したまとまりの枠組みとした上で、ここに「文化」という営為およびそれに伴う事象があると捉えられてきました。
たとえば、物質・行動・精神のような分類や「見える」「見えない」のような区別も、すべてこの枠組みの中で行われてきています。
この考え方は、「文化」という、ある実体が存在し、それに対する共通の認識があるという解釈です。
しかし、「文化」が動態的であるという立場に立つと、この実体は何なのかということが問題となるでしょう。
流動的であるがその実体はあるのか、あるいは、実体がないからこそ流動的なのか。
この答えはまだ出ていません。
一方、人間の認識そのものが流動的であることは容易に判断できるでしょう。
認識とは個人の中にあるものであり、一人一人の価値観とも連動するものですから、認識の仕方や方法あるいはその表出がそれぞれ異なるのは考えてみれば当たり前のことなのです。
集団は、認識や判断の主体とはなり得ません。
集団が、ある意思を持つかのように見えるのは、擬人化や象徴化のような現象だと考えることができます。
つまり、個人の何らかの意図が自覚的あるいは無自覚的に反映しているわけです。
個人は自らを取り囲む、さまざまな社会の影響を受けつつ成長し、それぞれの社会は個人の考え方や立場を映し出す鏡として成立します。
もちろん、個人は環境としての社会の影響を受けつつ成長するわけですが、では、その環境としての社会が人間のすべてを決定してしまうかというと決してそうではありません。
そこから抜け出して、違う自分を発見し、創造的な解決を目指すことができる可能性を個人としては十分に持っています。
その役割を果たすのが、コミュニケーションという行為なのです。
だからこそ、この個人の創造性を引き出す役割を担っているコミュニケーション能力育成ということが、言語教育の目的となり得るのではないでしょうか。
5.教育実践活動としての実現へこのような考え方に立った場合、具体的な教育実践活動が大きく変容することになります。
なぜなら、「個の文化」として個人の中にあるものを学習/教育の課題とすることは、固定化した集団社会に関する知識・情報の受容ではなく、まず個人の中に備わっている力をどのようにして引き出すかということが当面の課題になるからです。
次に、そのインターアクションのプロセスにおいて他者の「文化」との協働をどのように創りあげていくか、ということが教育の理念として展開されるからです。
この図は、対象としての「情報」を取り込んで、それに対しての自分の「考えていること」の把握がはじまり、その「把握したもの」をどのようにして相手に伝達するかというプロセスを示したものです。
さらに、それに対する相手からの反応の確認があってはじめて、コミュニケーションが成立するという、個人の中の思考と表現の往還のための相互関係も表しています。
ここまで述べてきて、ようやく「日本語教育で日本文化を教える」という発想そのものに問い直しが必要となることにわたしたちは気づきます。
6.“言語学習の環境をつくる”ということことばの活動を生きたものとして考えようとするためには、その構造や体系を固定的なものとして原理追求的に分析するのではなく、むしろ人間一人一人がどのようにそれを身につけることができるのか、それにはどのような環境づくりが必要で、さらにそこで担当者はどのような支援ができるのか、といった視点が不可欠になります。
わたしの主張は、人は一人一人違う文化を持っている、それを国籍や民族で簡単に境界を引いてしまうのは危険だ、だから、必要なことは、まず人が一人一人持っている「文化」を引き出し、それを相互に議論していくことだ、というものです。
ですから、日本語教育は、そのような環境をどのようにつくるかということを考えなければならないと思います。
複数の民族や複数の言語が混ざり合ったからといって、簡単に多文化主義だなどということはできません。
言語教育がさまざまな制度や権力によって都合のよいように利用されてきたことは、日本語教育の戦前の歴史を見てもわかります。
最も重要なことは、そうした制度や権力に負けない、強くて柔軟な個人をことばの教室でどのように育成していくことができるかという思想なのです。
くわしい文献その他の問い合わせは次のホームページへ早稲田大学大学院日本語教育研究科言語文化教育研究室http://www.f.waseda.jp/hosokawa/【ことばと文化について考えるための参考文献】○日本語教育と日本事情の関係について、さらに詳しく知るためには:細川英雄『日本語教育と日本事情』明石書店1999○ことばと文化を統合する考え方の背景や歴史を体系的に知るためには:細川英雄『日本語教育は何をめざすか-言語文化活動の理論と実践』明石書店2002○ことばと文化を統合する具体的な教室実践を知るためには:細川英雄+NPOスタッフ『考えるための日本語-問題を発見・解決する総合活動型日本語教育のすすめ』明石書店2004○母語と第二言語の別を越えた日本語教育の実践を知るには:牲川波都季+細川英雄『わたしを語ることばを求めて-表現することへの希望』三省堂2004○日本語教育におけることばと文化の教育の現在の状況を知るためには:細川英雄編『ことばと文化を結ぶ日本語教育』凡人社2002このコーナーでは、これから研究を目指す海外の日本語の先生方のために、日本語学・日本語教育の研究について情報をおとどけしています。