西递宏村日语导游介绍

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中国最高の名山・黄山の麓にたたずむかわいらしい村落、西逓と宏村。西逓は桃源郷を思わせるのどかな景色から「桃花源里人家」といわれ、宏村は水墨画のような美しさから中国中から人々が写生に訪れる「中国画里郷村」と呼ばれて愛されている。

今回はいまなお残る明・清代の街並みが美しい中国の世界遺産「安徽南部の古村落 - 西逓・宏村」を紹介する。宏村の家並みと水路。水路は約400年も前のもの2000年、中国人にさえほとんど知られていない辺境の村が世界文化遺産に登録された。村の人々は昔ながらのつつましい暮らしを続けていて、かつての繁栄を物語る白壁の独特な住居が立ち並び、周囲の美しい山々の景色とあいまって、まるで桃源郷のようだと称えられた。2005年、中国中央テレビが2万以上もある中国の村落(鎮)の中から、特に魅力的な「十大名鎮」を発表した。ここでも見事選ばれたのが、安徽省(エンフィシェン:あんきしょう)のふたつの村落、西逓(シーディ:せいてい)と宏村(ホンツゥン:こうそん)だ。ふたつの村がある安徽省黄山市イ県(イは黒偏に多。イーシェン:いけん)はそのほとんどがいまだに非開放地区。外国人が訪れるには許可証が必要だが、その代わり500年以上の歴史を誇る昔ながらの家並みと、中国の美しい田園風景を楽しむことができる

4~5世紀の詩人・陶淵明(とうえんめい)は、『桃花源記』の中で、山に迷い込んだ漁師が桃の林に囲まれた美しい農村を発見する物語を描く。外界から隔絶された環境でつつましやかな暮らしを営むその村は「桃源郷」と呼ばれ、中国の人々にとっての理想郷となった。

イ県は四方を山に囲まれ、その山々はかつて「イ山」と呼ばれたが、現在は「黄山」と呼ばれている。中国の名勝がすべて集まっているといわれるあの世界遺産「黄山」だ。

奇跡的な景観に守られた盆地ということで、イ県は桃源郷のモデルではないかという噂が立ち、やがて「小桃源」の名を冠するようになる。特に西逓の異名は「桃花源里人家」。また、まるで中国画を思わせる素朴な景色から、いまでは中国中から写生家を集めるにいたり、特に宏村は「中国画里郷村」といわれている。

西逓・宏村の両村を歩いていて感じるのはなんといっても素朴さ。大都会とは空気が圧倒的に違う。

これ、世界のどこでも同じなのだけれど、田舎の村のやさしさというか、たとえば何かを忘れていっても盗まれることはないだろうな、困ってその辺に立っていたらきっと誰か助けてくれるだろうな、そんな安心感というか。

たとえば街角で子供たちが駆けている。おばあさんが水路で野菜を洗っている。お母さんが籠にお茶を入れて道端で売っている。井戸端会議に花が咲いている。軒下で麻雀をしている。こんな何気ない日常の光景がたまらなく美しい。

陶淵明が描いた桃源郷は天国でも黄金の国でも先進の国でもなく、人々が日々天地と会話しながら農地を耕す、ごくごく普通の農村だった。

西逓・宏村を素朴だといったけれど、でも農村というわけではない。

村は壁に囲われていて、家々は白壁にレンガ屋根。村には隅々まで水が引かれていて、とても高度な水利システムであることがひと目でわかる。家に入ればあちらこちらの柱や壁に彫り物が施されていて、これがまた繊細精緻で美しい。ただの村でないことは一目瞭然だ。

最初にイ県のこの辺りに暮らしはじめたのは唐の19代皇帝・昭宗の息子・明経だったという。900年前後、政権抗争に疲れ果てた彼は世を捨て、姓を胡に改めて山に囲まれた西逓の地に移り住んだ。村の人々がいまでも芸術を愛し遊び心を忘れないのは、文化を愛する当時の貴族たちの血を引いているからだとか。

宋の時代から人口は増えていき、明の時代、15世紀に入ると胡家は商人としての仕事を開始する。塩や茶などの取り引きで大成功を収め、中国全土で活躍して「徽商(新安商人)」と呼ばれるようになる。

商人たちは中国各地で成功してはこの地に戻り、故郷に錦を飾って祠堂や橋や家を建てては村を発展させていった。

西逓・宏村の歴史2 徽派文化

こちらも宏村の民家。柱、壁、手すりに刻まれた木彫りが見事。彫り物は民家ごとに異なり、開放されている数十軒の民家を見て回ることができる

清の時代、徽商は最盛期を迎え、彼らの文化が大いに花開く。

民家の彫り物

まず、白壁、灰色レンガで統一された家々は「徽派建築」と呼ばれ、石、レンガ、木を彫った彫刻の美しさは「三絶(徽派三彫)」といわれ重宝とされた。また、南湖をはじめとして池や湖をたくさん造り、水路を作って水利システムを完成させた。

劇では「徽劇」が生まれ、やがて京劇へと発展する。書では「文房四宝」と呼ばれる文房具としての宝物のうち宣紙と徽墨を生産、硯も中国四大名硯のひとつに数えられている。ほかにも安徽料理をはじめ他に例を見ない多彩な文化は「徽派文化」と呼ばれ、チベット、敦煌と並ぶ中国三大地域文化に数えられている。

現在見られる建築物はほとんどこの時代、いまから約400年も前のものだ。村人の多くはいまだに当時の家に住み、当時の水利システムを使って生活を送っている。

桃花源里人家西逓の見所

西逓と言えばこの青石牌坊。日本の中華街でも入り口には必ず門があるが、あれが牌坊だ

西逓・宏村それぞれの村の見所を簡単に紹介しておこう。

西逓の祠堂、敬愛堂。「敬愛」には胡家の先祖や家族に対する思いが込められている

先の話のように、10世紀前後に川の西側にはじめて村ができた。このことから「西川」と呼ばれていたが、運搬局だった舗逓所が設置されたことから「西逓」になった。

西逓のランドマークは入り口の牌坊(パイファン:はいぼう)で、1578年、胡文光が朝廷に召されたことを記念して建てられた。胡家の向上心は非常に高く、科挙の試験で好成績を収めて役人になる者も多かった。それでも故郷を忘れず、先祖や家族への恩返しや孝行を何より重視したという。

徽派民家は220以上も残っており、一般に開放されているものもたくさんある。また、追慕堂、敬愛堂などの祠堂も当時のまま残されており、先祖を祀った数々の祠堂も見所のひとつとなっている。

中国画里郷村宏村の見所

宏村のため池・月塘。「中国画の村」といわれるだけあって、ほとりでは数多くの学生が写生を行っている

宏村のハイライトは、なんといっても長さ約200m、幅約40mの人口池・南湖だ。家並みや風情ある木々、太鼓橋が湖面に映え、山々や青い空とあいまって、本当に水墨画のような景色を見せてくれる。

街並みは牛の形をかたどっているといわれており、雷崗と呼ばれる山が牛の頭で、村の入り口にある2本の木が牛の角、南湖が牛の腹で、入り組んだ水路が腸、そして月塘と呼ばれる池が胃袋にあたるのだという。どうやら現在の風水にあたる学問が、この配置を生んだらしい。

承志堂は「民間の故宮」と呼ばれており、徽商の繁栄をもっともよく表す建物といわれて

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