平家物语

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《平家物语》的中国镜像关键词:平家物语儒家文化镰仓时代

摘要:《平家物语》是一部具有代表性的日本古代物语文学作品。它不仅反映了日本古代的社会生活面貌和思想文化,而且也透视出它与中国传统的思想文化的密切联系。作品采用日文和汉文混用的形式,脍炙人口,在日本文学史上具有深远的影响。本文拟从内容实例出发,分层面引证《平家物语》受古代中国文化潜移默化的影响关系。

引言

中日两国是一衣带水的邻邦。日本文化深受历史悠久、源远流长的中国文化的泽被,特别是对儒家文化传统的吸收和改造,更是造就了日本对外来文化的“和魂汉才”接受方式的巨大成功。《平家物语》是日本镰仓时代(1192—1333)的古典文学名著,多年来广为流传,曾出现过200多种不同的版本,对后世产生了极为深远的影响。这部作品不仅包含着佛教思想,而且反映了儒家的因果观和道德观,同时也体现了当时正在兴起的武士精神。它宝贵地展现了那个时代的思想和生活的史实。正是在这个意义上我们有必要对书中所反映的历史观、忠义观、天命观等来加以阐释。

一、形同神异,借史集儒释道

“儒”原本是中国古代对学者的尊称,为“优”及“和”之意,是指其思想、学问能够安定他人,足以说服别人。《平家物语》受儒家文化的影响,大量地直接引用或借用中国史实。开篇“祗园精舍”用“远查异国实事,秦之赵高,汉之王莽,梁之朱异,唐之安禄山,都因守不住先王法度,穷极奢华,不听诤谏,不悟天下将乱的征兆,不恤民间的疾苦,所以不久就亡了”①,给平家作了预言性的评价。“立匾的纠纷”中,清和天皇九岁接受文德天皇禅位,明确指出是仿效了中国周公辅成王,南面临朝,日理万机的先例。“烽火”篇章讲到小松公为了让父亲明白一切富贵、荣华、朝恩、要职总有用尽的道理,举证了萧何虽然功勋越侪辈,官至大相国,但违背了君心,高祖仍然给他以重罚的史例。继而,对其下属用周代烽火戏诸侯的故事来告知他不会犯同样的错误。“严岛临幸”一篇,高仓天皇在平家势力的压迫下,过早地让位于东宫(高仓天皇的儿子,是入道相国的外孙)。面对人们的非议,平大纳言时忠卿(新帝乳母帅典侍②的丈夫)辩解说:“在外国,周成王三岁即位,晋穆帝两岁登基……后汉的孝殇皇帝诞生百日就践祚。天子幼年即位,和汉两国都不乏这样的先例。”③可见日本人对中国历史相当熟悉,往往当作有典可查的经验之谈。“迁都”写天皇将都城迁到

福原。当时日本国内的形势很混乱,天皇又迁都,又建造皇宫很不合时宜。所以人们讨论说:“……楚灵王建章华台,使人民离散;秦始皇造阿房宫,致天下大乱。……有鉴于此,唐太宗虽作骊山宫,因恤万民靡费,卒不临幸,以致瓦顶生松,墙生薜荔,与现今后人相比,可谓大相径庭了。”④中国儒家文化东传日本后,日本民族接受、利用并发展了儒家文化。《平家物语》中多把中国历史故事甚至是传说作为生活经验。“两代皇后”中,二条天皇好色,偷偷地叫高力士在外面搜求美人,将情书送到了皇太后那里。事情公开后,公卿们认为虽然在中国历史上,武则天是唐太宗的后妃,唐高宗的继母。太宗驾崩,被立为高宗的皇后。但这毕竟极其特殊。而在日本的历史上还没有立过两代皇后的事情,但最终仍然将皇太后纳为皇后。可见,中国史鉴起到了相当重要的作用。“立东宫”,新帝高仓天皇的继位标志着平家的荣华达到极致。书中以唐朝杨贵妃得宠时的杨家来比喻此时的平家,暗示两家的结局相似。随后谈到汉和两朝作为真言本尊的九曜陀罗的来历。一行阿阇梨因为和杨玉环的嫌疑引起唐玄宗的猜疑,被流放果罗国。一行阿阇梨在去果罗国的途中感化上天,然后在左衣袖上画出九曜的形象。书中故事娓娓道来,如同叙述本国野史传闻。

追述平家历史时,提到清盛公任安艺守的时候,从伊士海乘船到熊野途中,有一尾很大的鲈鱼跳进他的船中,向导

对清盛公说,“古时候,曾有白鱼跃入武王的船里,这是吉兆”⑤,因此清盛公将鲈鱼烹调了,让全家的子弟和仆人分吃了,自此平家的运气不断好起来,在整体上奠定了《平家物语》的基调。“僧徒齐集”中,高仓宫率领叛军在进攻六波罗的途中天亮鸡叫。于是伊豆守对高仓宫讲述了孟尝君过函谷关时,因为开不了门,他的食客学鸡鸣将门骗开的故事,以此安慰高仓宫。伊豆守的“经验”似乎有点可笑,但在当时的特殊环境下(鼓舞军心),其用心已显而易见了。

日本民族的文化、社会心理的形成和变化受儒学文化影响的同时,又与原始神道相结合,使其附有了宗教信仰的成分,进而构成了民族所特有的天命观。在征兆与应验的描写上, 日本民族总是充满盛者必衰的物哀情绪。“医师问答”中,小松公患重病,入道相国欲求宋朝名医为其医治,被小松公拒绝。小松公对劝他的人说:“汉高祖提三尺剑……为流矢所伤,太后吕氏请来良医为其治病。但是医生要收五十斤黄金。汉高祖说:‘……在我武运方盛时,曾多次打仗受伤,并不觉得怎么痛楚,现在我的命运已经尽了。人命在天,纵有扁鹊,又有何益……’最终给了医生五十斤黄金而没让他治病。”⑥小松公认为自己也是到了命运将尽的地步,因此也拒绝让医生治病。又说:“今重盛身非佛体,名医又不如耆婆,即使他通晓四书,精于百病疗法恐怕也无法救助积秽的人。即使他熟读五经,能治百病,对于劫数之内的病孽也

是难以治愈的。”⑦这里的“四书”指的是中国古代的四大医书:《素问》、《大素经》、《难经》、《明堂经》。“五经”指的是《素经》、《灵枢经》、《难经》、《金匮要略》、《甲乙经》。由此中国古代医学在日本人心目中的地位可见一斑。“法印问答”中,由于内大臣小松公去世还未过七七⑧,法皇就行幸八幡。入道相国对此非常生气。他用唐太宗因魏徵先卒,不胜感伤,亲自书写碑文“昔殷宗得良弻于梦中,今朕先贤臣于觉后”⑨的例子来批评法皇对内大臣去世毫无哀悼之意。紧接下来的《大臣被流放》一篇讲内政大臣藤原师长被流放至东国,虽被流放但并不觉得忧烦。主要是想起古时唐朝太子宾客白乐天谪居浔阳江畔的事情,故赏明月,啸湖风,弹琵琶,吟诗歌借以排遣。可见,中国文化不仅影响到了日本统治阶级,而且被借鉴用来当作统治国家的经验,同时也极深刻地触及到了日本文人的灵魂,他们在遭遇不平后,也寄情于中国文人的遭遇。因此,中国文化很大程度上也可视为是日本文人的精神归宿。

二、引用中国文献之映像

《平家物语》中引用中国文词典故共124处,直接引用原典文句的有72处。笔者在周启明、申非的译本中找出直接用中国典故或文献原句作译的就有70多处。涉及的文献范围非常广。“经史子集”、“白氏文集”、“汉书”、“文选”

都能在书中找到直接引用的例子,本文不作一一摘出。只举几个有代表性的例子作析。

《平家物语》直接引用中国文献语句,使作品文笔生辉,富有韵律,铿锵有力,以此达到“兴”的手法。可谓先言他事,以引起要说之事。如《西光被斩》中用“从兰欲茂而秋风败之,王者欲明而谗人蔽之”⑩,比喻西光进谗法皇。治承四年的五节会上,有人咏歌“竹斑湘浦……”{11},邦纲大纳言在外边听见了觉得这是不祥的话,还不如不听的好。这里都是在借用中国之古事,引出作者本人想要表达的思想情怀。

作品中,出于对异国文萃的欣赏,作者在创作中自觉地利用熟知的异文化语境进行描写,以便更好地烘托自己的思想感情。如“赦书中”形容中宫(入道相国的女儿)生产时痛苦的样子,用的是“当年一笑百媚生的汉朝李夫人在昭阳宫里患病的姿态就是如此”和“‘梨花一枝春带雨’……比起唐代的杨贵妃,其风情尤为令人怜惜”{12}等字句来形容。“临幸大原”引用《论语》中的“颜渊居陋室,箪瓢常空”和《庄子》中的“原宪住蓬户,藜蘉遍地”{13}来形容女院庵室的破落,同时也渲染了法皇的那种愁苦、压抑的心情。

结语

众所周知,《平家物语》同古代物语不论是内容上还是形式上都有着本质的不同,它以日本中世纪社会的没落及封建主义革命带来的变革为主要描写背景,融合协调地运用汉语、佛语、俗语等日汉混合文体,巧借汉史,在深刻地映射出古代日本社会各个方面的同时,也很好地接受和传承了古代的中国文化。在日本文学的发展史中,《平家物语》尚属于初级发展阶段,因此,创作中模仿外国文学也是必不可少的。通过对比研究《平家物语》在题材上与中国文化的借鉴关系,可以更好地进一步考查中国文化在传播过程中是如何发展变化的。这对今后研究两国文学发展进程中的影响关系及文学发展规律会产生一定的价值取向作用。

①《平家物语·祗园精舍》,周启明、申非译,人民文学出版社,1984年版,第1页。

②典侍是内侍司的次官,帅是其父藤原显时太宰权帅的官职。

③《平家物语·严岛临幸》,第145页。

④《平家物语·迁都》,第193页。

⑤《平家物语·鲈鱼》,第8页。

⑥《平家物语·医师问答》,第125页。

⑦《平家物语·医师问答》,第126页。

⑧旧俗,人死后七七四十九天之内为死者安魂诵经,

日本称为“中阴”。

⑨《平家物语·法印问答》,第132页。

⑩引自《贞观政要·杜馋》,见《平家物语·西光被斩》,第56页。

{11} 《和汉朗咏集》,语出张读《愁赋》:“竹斑湘浦,云凝鼓瑟之踪;凤去秦台,月老吹箫之地。”第255页。

{12} 《平家物语·赦书》,第101页。

{13} 《平家物语·临幸大原》,第517页。

参考文献:

[1] 平家物语[M]. 周启明,申非译. 北京:人民文学出版社,1984.

[2] 西乡信纲. 日本文学史[M]. 北京:人民文学出版社,1978.

[3] 申非. 日语学习与研究. 平家物语与中国文学[J].1985,3:7-10.

关于《平家物语》之“无常观

『平家物語』における?無常観?について摘要

《平家物语》成文于日本镰仓时代,描写了平氏一家由荣华走向没落的历史。书中以保元﹑平治之乱中获胜的平家和战败的源家之间的对比,以及源平两家争战后对平家的追讨过程为中心,生动地再现了当时处在社会变革中逐渐没落的平安贵族与开始登上历史舞台的武士阶级的社会状况。本研究,基于多次通读这部优秀的战记物语,在深刻理解作品描绘的日本中世宗教状况以及人们的宗教理念的基础上,对“无常”的观念如何贯穿作品始终,为何能够在人们心中打下深深的烙印等诸多问题进行了探讨。

关键词:平家物语;佛教;神道;无常

要旨

『平家物語』は鎌倉時代に成立した、平家一族の栄華と没落を描いた歴史物語である。保元の乱?平治の乱に勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落し始めた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事にかきだしている。本研究では、この最高の軍記物語と呼ばれる物語に基づき、中に描かれた日本中世における宗教の状況やそれに対する人々の観念を解読したうえ、なぜ「無常」という感じがいつも現れ、また人々の心に生じたのかという問題を辿り、検討してみたいのである。

キーワード:平家物語;仏教;神道;無常

目次

第1章序論

第2章『平家物語』について

2.1 物語の成立

2.2 物語の粗筋

2.3 物語における仏教思想

第3章仏教の日本化

3.1 神に恵まれた国

3.2 藩神到来

3.3 奈良時代の仏教

第4章所謂「無常観」

4.1 無常観の起源

4.2 『平家物語』における無常観

結論

謝辞

参考文献

第1章序論

紀元3世紀ぐらいには、すでに日本列島と中国大陸の交流があった。大国文化に対する憧れを抱えて、中国への留学生が派遣された。遣隋使、遣唐使など、時代によってさまざまな呼び名があるけれども、彼らの背負った使命や志が変わることはなかった。律法、制度の導入につれ、東南アジアに盛んでいた仏教がますます注目された。仏教の伝入がもっと前のことであったが、最初はただ貴族たちだけの信仰となっていた。最澄、空海などの留学僧のおかげで、仏教が咲き誇る花のようにだんだん日本各地に、上から下まで広がっていく。しかし、たとえ仏教の世と呼ばれる平

安時代派も、いよいよその時代を迎えようとした。時は紀元12世紀半ば、平家一族の盛衰史を生き生きと描いた『平家物語』における時代である。

様々な人物を刻んだこの物語が、壮大なる戦争の場面を見せてくれる。『平家物語』のシンボルとして、無常観がよく知られている。本論文はその「無常」の解読を検討しようと思って、三つの部分になっている。第2章において、まずは物語の紹介や粗筋などを見てみた。第3章において、前回に提出した問題に応じ日本化した仏教について説明した。第4章において、「無常観」の源について探究してみて、また『平家物語』における様々な人物の例を分析した。以上の研究を通して、『平家物語』とその中に溢れる無常観に対する認識を、もっと深めることができよう。

第2章『平家物語』について

2.1 物語の成立

平清盛を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規模であったと推測されている。それがしだいに増補されて、13世紀中ごろに現存の12巻の形に整えられたものと思われ

る。作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好法師の『徒然草』によると、13世紀の初頭の後鳥羽院のころに、延暦寺の座主慈鎮和尚のもとに扶持されていた学才ある遁世者の信濃前司行長と、東国出身で芸能に堪能な盲人生仏なる者が協力しあってつくったとしている。後鳥羽院のころといえば、平家一門が壇の浦で滅亡した1185年から数十年のちということになるが、そのころにはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる。

この『徒然草』の記事は、たとえば山門のことや九郎義経のことを詳しく記している半面、蒲冠者範頼のことは情報に乏しくほとんど触れていないとしているところなど、現存する『平家物語』の内容と符合するところがあり、生仏という盲目の芸能者を介しての語りとの結び付きなど、この書の成り立ちについて示唆するところがすこぶる多い。ことに注目されるのは、仏教界の中心人物である慈円のもとで、公家出身の行長と東国の武士社会とのかかわりの深い生仏が提携して事にあたったとしていることで、そこに他の古典作品とは異なる本書の成り立ちの複雑さと多様さが示されているといってよい。

2.2 物語の粗筋

平安末期の日本が、まさに大きな変革や騒乱に囲まれていた。仏に仕えるため出家したがまだ政を握っている法皇と、父親に逆らうことのできない天皇、優雅に暮らしていた貴族と政権を把握し始める武家、また兵を所有する各地の領主と領地の争いで離散になった庶民たち。さまざまな原因でこのような乱世を築いたのである。『平家物語』は、平忠盛の始めて昇殿を許された天昇元年から、建礼門院お往生の建久二年まで、約六十年にわたる平家の盛衰をその内容としたもので、史実のみによらず、想像のみによらず、史実と想像とを交わして、史書と物語との中間をいったものである。

この物語の主人公の平清盛は、その時代のおかげで出世した。安芸守からわずか十数年に、保元の乱や平治の乱を抑える手柄でついに太政大臣までにつき、そのため一族も極の栄誉を手に入れた。公卿に担当する者が十六人、殿上人が三十人余り、日本全土六十六国の中で平家の所有する領地が三十か所くらいでもあった。まさに真っ盛りといえるであろう。

一方、特権を代々受け継ぐ貴族制度が崩れつづあり、私有荘園と武装を持つ地方領主が舞台に上がってきた。『平家物語』いおける人物中、最も多いのはさすがにこれらの武人である。出征途中、竹生島に管弦する、呑気な経正が、よく書かれ散るのは風雅のためで、戦乱の間に、能登殿が大いにもてるのは、勇武のためである。この両者を重ねたものは、まさに時代の寵児で、瀬政や忠盛が特に光って見えるのはそのためである。一方、武家を代表する平家一族がその時代に活躍できるのも、各地の大名が支えてあげるために違いない。しかし、政権を握った平家は自らの階級の利益に逆らい、貴族のような生活を極めた。また京で二三百余りの少年を選って、かぶろのように髪を切り、一旦平家の御事悪しざまに申す者があれば、すぐに家に乱入し、私財雑具を追捕し、その人を六波羅殿へ捕まえ、このように天下を好きに扱うにした。後に源氏に負けたのも、誠に「盛者必衰」という言葉に当たったのであろう。

『平家物語』はこの両大武家の政権争いを巡り、様々な人物像や社会万象を生き生きと刻み、その同時に中国の歴史典故や詩歌などもよく出てくる。儒教の道徳観や仏教の宿命論が全書に貫き、平安時期武士階級の精神状況も見事に描写した。しかし常に我々の目に立ち頭に浮かべることは、

やはりあの時代の仏教の実態であろう。太政大臣平清盛にしても下級武士たちにしても、彼らは自分の運命をすべて仏に預けるような気が強く感じられる。一の谷の戦いで敗退し、死ぬ前にも西に向かい「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」と十念する薩摩守忠度や、焔に燃えられるように死去した入道相国。これらの描写は、仏教に対する信仰がいかに強かったのを表す他ならないのである。

2.3 物語における仏教思想

さまざまな変革に迫られていた平安朝の日本は、大陸文化を積極的に吸収する一方、仏教も盛り人々の心に根強く留った。鑑真の東渡、唐招提寺の建設でますます興隆になりつつあった。中世の日本人は仏のことに莫大な関心を持ち、生活の面々にも影響された。平氏の創始者の平忠盛は、鳥羽上皇のため得長寿寺を建てから登殿ができ、一族繁栄の土台を築いたのである。各大寺の座主は必ず親王とか地位の高い公卿とかで担当され、仏教の重要さが言うまでもないことである。

貴族にも関わらず、庶民たちの敬う心も明らかに表わされていた。歌女の妓王は入道殿に捨て去られた後、世間に絶

望し、ついに出家した。一時に栄華になった佛でも、「いづれか秋にあわで果っべき」という嘆きさえ出て、出家になったのである。現世が不順ならば、来世を求めた方が良い。妓王たちが出家し極楽を求めた果ては、後に後白河法皇の長講堂の過去帳にも妓王、妓女、刀自、佛などが尊霊と記録されていた。彼らの宿願が叶えたとしても、かなり憐れむことであろう。このように仏法興隆から二三百年の間に、仏教がだんだん本土化また日本化になり、自ら独特の精神教義が出てきたのである。しかし、時は仏法衰微の時期になった。武士豪族の争いで戦争を招き、天下が不安になり続いた。源氏を潰し都から追い払ってから、平氏はまつり事を独断していた。失意した貴族や武士は相次ぎに出家し、来世の福祉を祈ることが多かった。動揺した態勢が人間を恐慌させ、?諸行無常?の観念もいつの間に人々の心から生じ蔓延り、仏教はこのように俗世間を離れる最もいい口実となった。

「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。驕れるものの久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ。ひとえに風の前の塵に同じ」。この哀唱をはじめとして、平家十二巻を貫くものは、無常観であり無常の哀感である。いわゆ

る「無常」、つもり変化の意を表し、世間の物がいつも無限の変化にあったという仏教の基本的認識である。「無常」の生まれは、日本列島独特の自然環境にも深くかかわったと思う。地震、火山、津波、日本民族は昔からこのような災害で生きていた。人間の死去、建物の壊滅、これらの全ては人の精神状況に影響し、存在することがいかに実在的でなく、幻の感覚までも出てきたのでしょう。しかし、広く伝わる仏教こそ、その無常の現れの重要な要素だと思う。なぜ大陸から伝来した仏教が日本国でこんな差異が出たのか。またその異化された仏教に対する認識は、「無常」を形成してきたのでしょか。その両者の間に、きっと何かのかかわりがあるのである。ならば、宗教の面から、その「無常」の起源を辿りしよう。

第3章仏教の日本化

3.1 神に恵まれた国

長く狭くて、また海に包まれる土地、それが日本列島である。島国として、自然環境がきびしいどころか、時々地震や火山や津波の災害も起こり、結構大変であった。こんな状況で生きてきた日本民族は、言うまでもなく大自然に尊敬かつ怯える感じが生じられなくてはいられなかった。農

業生産の豊作や一族の繁栄安全など、これらの不安定な要素をすべて「あるもの」の意志とされば、やがて「神」という言葉が出てきたのである。祖先の崇拝や形のない霊を祭る中で、自然の大いなる力に恵まれているという気持ちも抱えられてきた。『古事記』の編纂により、始めて文の形で日本国と日本人の由来の伝説などを述べ、神の子孫としての誇りが明らかである。

祖先や自然神を尊崇しながら形成したものは、民族宗教であった。それは他の民族の宗教と同じく、最初は単に村全体の繁栄や安全のため祈った行事であった。村人は神社を作り、そこで祭りを行うことにした。古墳時代後期になると、農業生産の進みにより社会の変化が大きかった。家族、氏族などが生まれ、それに対して相応の氏族神も誕生したのである。にもかかわらず、信仰される神が変わっても、その祈りの本質は変わらなかった。こういう時期の民族信仰は、まだ個人的な「福を招き、禍を消す」という念願を実現するために存在していて、教義や理念などは全くなかった。無知な人々は厳しい生存状況で生きられるため、常に神に恵まれるというような感じが生じた方が、心の安らかさができるでしょう。これは最初の「神道」というものである。やがて日本社会の発展に伴い、国家の形で政を処

理するには、もっと優れた制度が望ましかった。海の向こう、大陸の中国から国政を学ぶ同時に接触した新たな宗教――仏教も日本の舞台に上げたのである。

3.2 藩神到来

紀元522年百済明王は使節を派遣、日本に仏像を献じた。よって、仏教が朝鮮半島から正式的日本へと伝わってきた。『日本書紀』によると、その献上した仏像を祭るかどうかについて、当時の欽明天皇の大臣たちは激しい論争に陥った。崇仏派の蘇我氏は「諸外国が尊敬する以上、わが日本国も例外なしに崇めるべし」と述べたけれども、一方排仏派の物部氏は「我が国が天照大御神に守られているながら、また蕃神などを崇拝することは、カミの怒りを招く恐れがある」と強く反発したのである。両大派閥の対立は五十年あまりという、長い時間に続いた。仏教の初登場が激しい反対の声に遭遇したのは、上記の言うとおり本来民族宗教がすでに存在しているほか、当時の政治体制にも深くかかわっていた。朝廷を左右した力は、豪族保守派を代表する物部氏や、新興貴族を代表する蘇我氏であった。前からも帰化人や大陸文化に接触し先進文化に影響された蘇我氏は、仏教を引き入れる機会で、物部氏との闘争に劣勢

平家物语

《平家物语》的中国镜像关键词:平家物语儒家文化镰仓时代 摘要:《平家物语》是一部具有代表性的日本古代物语文学作品。它不仅反映了日本古代的社会生活面貌和思想文化,而且也透视出它与中国传统的思想文化的密切联系。作品采用日文和汉文混用的形式,脍炙人口,在日本文学史上具有深远的影响。本文拟从内容实例出发,分层面引证《平家物语》受古代中国文化潜移默化的影响关系。 引言 中日两国是一衣带水的邻邦。日本文化深受历史悠久、源远流长的中国文化的泽被,特别是对儒家文化传统的吸收和改造,更是造就了日本对外来文化的“和魂汉才”接受方式的巨大成功。《平家物语》是日本镰仓时代(1192—1333)的古典文学名著,多年来广为流传,曾出现过200多种不同的版本,对后世产生了极为深远的影响。这部作品不仅包含着佛教思想,而且反映了儒家的因果观和道德观,同时也体现了当时正在兴起的武士精神。它宝贵地展现了那个时代的思想和生活的史实。正是在这个意义上我们有必要对书中所反映的历史观、忠义观、天命观等来加以阐释。

一、形同神异,借史集儒释道 “儒”原本是中国古代对学者的尊称,为“优”及“和”之意,是指其思想、学问能够安定他人,足以说服别人。《平家物语》受儒家文化的影响,大量地直接引用或借用中国史实。开篇“祗园精舍”用“远查异国实事,秦之赵高,汉之王莽,梁之朱异,唐之安禄山,都因守不住先王法度,穷极奢华,不听诤谏,不悟天下将乱的征兆,不恤民间的疾苦,所以不久就亡了”①,给平家作了预言性的评价。“立匾的纠纷”中,清和天皇九岁接受文德天皇禅位,明确指出是仿效了中国周公辅成王,南面临朝,日理万机的先例。“烽火”篇章讲到小松公为了让父亲明白一切富贵、荣华、朝恩、要职总有用尽的道理,举证了萧何虽然功勋越侪辈,官至大相国,但违背了君心,高祖仍然给他以重罚的史例。继而,对其下属用周代烽火戏诸侯的故事来告知他不会犯同样的错误。“严岛临幸”一篇,高仓天皇在平家势力的压迫下,过早地让位于东宫(高仓天皇的儿子,是入道相国的外孙)。面对人们的非议,平大纳言时忠卿(新帝乳母帅典侍②的丈夫)辩解说:“在外国,周成王三岁即位,晋穆帝两岁登基……后汉的孝殇皇帝诞生百日就践祚。天子幼年即位,和汉两国都不乏这样的先例。”③可见日本人对中国历史相当熟悉,往往当作有典可查的经验之谈。“迁都”写天皇将都城迁到

浅谈历史文化资源内涵及其德育价值

浅谈历史文化资源内涵及其德育价值 【摘要】我国改革开放30年来,物质文明建设与精神文明建设取得了重大成就,但随着改革的深入,市场化进程的深化,人们过多地看重了历史文化资源的经济价值,或多或少地忽略了历史文化资源的德育价值。本文从历史文化资源的含义入手,对历史文化资源的内容和特征做了简要的概括和总结,指明了历史文化资源的德育价值。 【关键词】历史文化资源内涵德育价值 历史文化资源,是指人类文明活动过程中遗存的各种文明印记。对于历史文化资源的研究也就是对人类自身文明发展规律的研究。各国对于本国的历史文化资源的研究与开发从未间断,并且形成了一个跨多学科的研究体系。 一、历史文化资源的内涵 历史文化资源的内涵丰富,本文主要从含义,内容和特征三个方面具体阐述。 1.历史文化资源的含义 这一概念的界定,各学者持有不同的见解和观点。郑冬生指出,“所谓历史文化资源,是指历史文物、古迹、历史遗存。”郑汕、赵康认为“历史文化资源是以文化形态存在的社会资源,它是人类社会进步的纪录,是人类创造的物质财富和精神财富的积淀,是社会文明的结晶”。 金一的《文学观》里有:“从古帝王之业,真能赤手开创而无所凭藉者,歷史上,多不过三四人。”这里的“历史”指得是自然界和社会的发展进程。而“文化”,词典里的含义是“人们在社会历史实践过程中所创造的物质财富和精神财富的总和”,如曹禺《王昭君》第二幕:“他不相信,汉朝对待匈奴的诚意,看不起长安文化。”中“文化”就是此意。“资源”则是生产资料或生活资料等的来源。叶剑英的词《浣溪沙?登大兴安岭》中:“伐后更生延百岁,祖先遗树值千年。资源利用慎材艰。”中的“资源”就作此解释。由此,我认为历史文化资源是人们在社会发展的进程中通过实践所创造出来的,对人们的生产或生活有利用价值的物质财富和精神财富的总和。 2.历史文化资源包括的内容 历史文化资源包括物质文明和精神文明两大类资源。物质文明是人们在征服自然界改造人类社会的过程中所创造的物质财富。精神文明是人们在改造人类社会的同时产生的能够推动物质文明发展的精神财富。 3.历史文化资源的特征 (1)时代性 历史文化资源具有鲜明的时代性,它是人类改造自然界和人类社会的历程,是人类祖先留给我们的宝贵历史经验和人文资源。它的各个细胞无不铭刻着历史的痕迹和时代的烙印。 (2)唯一性 历史文化资源的时代性和历史性决定它所承载的历史信息、历史材料、历史文化内涵、历史地位作用是不可再生的,无可替代的。因此,它具有唯一性。人类社会虽然已经历经几百万年,但是没有哪个历史事件或是历史人物是相同的,所以历史文化资源有明显的唯一性。 (3)客观性 历史文化资源是不以人的意识为转移的一种客观资源。不论是文物古迹还是人文精神都是历史留给我们的,不依托我们的意识而改变的客观存在,是无法更改和麽灭的。如:日本侵华战争,不论日本政府是更改教科书,还是试图掩饰罪状,都无法改变1937年日本侵华的事实,因为历史留下的印记是无法抹去的,它已经留下了历史证据和历史记忆。 (4)复合型

平家物语

源义经是日本文学和传说中最伟大的军事人物之一,传说中的军神,也是兔死狗烹式的悲剧性胜利者的典型。 他是源义朝和常盘御前的幼子,出生于西元1159年,乳名牛若丸。其父在平治之乱时被平清盛所杀,兄长赖朝被流放至伊豆。传说他以遮那王之名在鞍马寺中长大,曾经得到逸外高人的指点。之后在商人吉次的牵线下托身于奥州平泉的藤原秀衡门下。青年时响应其兄源赖朝反对当权的平氏一族的战斗号召,并与堂兄木曾义仲协力进行讨伐平氏的战斗。木曾攻取京都后,赖朝猜忌义仲并派义经和源范赖进攻义仲。义经获胜,义仲被杀。在此之后,他转兵同平家继续交战,于一之谷、屋岛、坛浦打败平家部队并将其歼灭。这一连串胜利造就了他不败的军事传说的同时也使得兄长赖朝对其的猜忌日增。在政治、军事上孤立之下,源义经只得再次投奔奥州的藤原氏。但为秀衡的继承者泰衡出卖,死于衣川自卫战,享年三十一岁。 据说他身材矮小,容貌秀丽像个女子,却有着相当火爆的脾气。而关于他年轻时候的事迹、同静御前的爱情故事和最终的死法有相当多的不同版本的传说,甚至有些无聊的人士认为他并没有死于衣川,而是逃到蒙古变成了成吉思汗@_@......在这里便不一一列举了。 武藏坊弁庆 源义经麾下的首号家臣,从义经起兵到战败身死一直随侍左右。他与源义经的主仆关系一直以来都是武士阶级标榜的楷模,而相关他的传说更是远远多于他在正史上所见的记载,可以说是个历史比重远远小于传奇比重的人物,因此关于他的资料有多少是真实的是很值得怀疑的。 传说他是个身材巨大、武勇卓越、忠贞不二的勇士,是比睿山僧人出身,也有说他的真实身份其实是熊野别当藤原一族,这些都早已无法考证了。他与义经的初会是在京都的五条大桥的一次宿命的对决,由于拜服义经的实力便长期追随于他。关于这些事在很多日本的古代戏剧中都有叙述,什么当天夜晚樱花漫天之类的,但恐怕更多的只是种艺术手法而已。

文化的内涵是什么

文化的内涵是什么?文化是相对于政治,经济而言的人类全部精神活动及其产品 传统文化的含义?传统文化是在长期历史中发展形成并保留在现实生活中的,具有相对稳定性的文化,具有稳定性,多样性,民族性,继承性 什么是文化?其本质性的、深刻的内涵是什么?“文化,是人类在其社会历史发展中不断创造、总结、积累下来的物质财富与精神财富的总和。因此,文化是一种历史现象,是历史发展的体现。正因为如此,不论人们承认与否,文化从客观上存在着一种极其强烈的、割不断的历史传统性质。虽然,文化的历史传统,在长期的历史传承过程中,可以使其性质逐渐地得到改变,但这种改变,需要蔚成一种社会风气,在很长的历史发展过程中才能实现。文化传统的历史性改变,是一个长期的潜移默化的历史过程,往往是人们对它并不多么在意。但是,这种文化传统的性质一经改变,哪怕是部分的改变,就将反转过来对人类社会生活产生巨大的影响,或祸或福。无论何种文化,其本质性的、深刻的内涵是哲学,是价值观、人生观、世界观、生存思想与方法的各方面体现。第一,中国传统文化,是以中国的天道、地道、人道、时变四维一絷哲学思想理论体系为其灵魂的,这是它在世界各种历史文化中显著的特点之一,也是其博大精深的根本性原因;第二,中国传统文化,是与国家制度密切相关的,“五帝时期”形成的是以民为本、爱地亲民、以道立法、以法治国、选贤任能、刑德相养、执法有度、富民强国、明民而治的思想文化;自夏禹以来,所形成的是唯皇作极、以官为本、任人唯亲、神道设教、愚民而治的独裁专制封建文化;自百家争鸣以来,民主法制与独裁专权两种思想文化相互交织而存于诸子之说中。因此,弘扬中国传统文化,首先就有一个分清精华与糟粕的工作必须仔细地进行;第三,中国传统文化,是与仁、义、礼、智、信,温、良、恭、俭、让,忠、孝、节、悌等行为规范的社会教化相关联的,抽去了社会教化,缺少了具体的道德规范,就无以传承。不能进行历史传承,造成了文化的历史缺位,就谈不上文化的弘扬;第四,中国的传统文化,其最为显著的特点之一,就是人与自然万物的和谐相处,更是人与人之间的和谐相处之道,这个特点不是如何教导别人,而是内省,“吾日三省吾身”,“克己复礼为仁”,此之谓也。中国传统文化是中华民族从古至今发展起来的文化形态,是中华民族智慧的结晶,是中华民族的历史遗产在现实生活中的展现。这个思想体系蕴涵着丰富的文化科学精神,是内部凝聚力的文化,把个人与他人、个人与群体、人与自然有机地联系起来,形成一种和谐,一种天人合一的境界。但是中国传统文化并不是一个封闭的系统,尽管在中国古代对外交往受到限制的条件下,还是以开放的姿态实现了对外来文化的兼容。中国传统文化突出理学知行合一的学风,它以研究天人之际为出发点,落脚于修身、齐家、治国、平天下的豪迈情感,所谓,达则兼济天下,穷则独善其身,这影响了几千年饱学之士的价值观,成为一双无形的手牵动着文明的进步!文化,尤其是对一个民族的特点和历史走向产生过明显影响的有形文化是一种有机的活体,有她或她们的历史生命和灵魂。看一个文化是不是活着的,就要看她的基本精神是否还能打动现实的人群,与实际生活和历史进程有呼应。中国文化基本精神有四点:1.刚健有为;2.和与中;3.崇德利用;4.天人协调。 中国文化的基本精神有七点;1.人文化成——文明之初的创造精神;2.刚柔相济——穷本探原的辩证精神; 3.究天人之际——天人关系的艰苦探索精神; 4.厚德载物——人格养成的道德人文精神; 5.和而不同——博采众家之长的文化会通精神; 6.经世致用——以天下为己任的责任精神; 7.生生不息——中华人文精神在近代的丰富与发展。 1.“天人合一”的自然世界观。在中国的传统思想中,对于人与自然、人与宇宙的思想认识以“天人合一”的自然世界观为代表。中国古代思想家大多数主张天人协调,而反对把天和人割裂、对立起来,在他们看来,天与人、天道与人道、天性与人性是相类相通的,因而可以达到统一。而这实际上就是将人与自然和谐统一,强调人的发展与自然的循环相适应,人与自然和谐相处。与之相区别的,西方文明则强调人要征服自然、改造自然,才能求得自己的生存和发展。大陆文明与海洋文明对自然世界的不同理解,最终形成了截然不同的文化传统和民族精神。 2.“以人为本”的人文主义思想。“以人为本”的人文主义思想,是中国传统文化中独特之处,也是中国传统文化基本精神的重要内容。“以人为本”,就是指以人为考虑一切问题的根本,在天地人之间,以人为中心,

如何挖掘旅游资源的文化内涵

如何挖掘旅游资源的文 化内涵 公司内部编号:(GOOD-TMMT-MMUT-UUPTY-UUYY-DTTI-

如何挖掘旅游资源的文化内涵 摘要:随着我国的国民经济不断发展,人们的生活水平不断提高,大家都开始注重享受型消费,旅游便是其中最典型的一项,旅游不只是一种社会经济现象,更是一种文化现象。旅游总是离不开文化,与文化息息相关,旅游的发展需要借助文化的推动。发掘旅游景点的文化内涵就相当于在寻找旅游景点的灵魂。中华文化博大精深,旅游景点只要有了传统文化作为依托,这汪泉水才能永不干涸。本文的目的是为了探究如何从博大精深的中华文化中挖掘出旅游景点的文化内涵,从而推动当地旅游的科学发展和可持续发展。 关键词:挖掘;旅游资源;文化内涵 近年来,随着经济的不断发展,人们的出游量也在不断增大。但是对于一个景点来说,想要得到长久的可持续发展。他就一定要依靠时代所赋予自己的文化内涵。没有文化内涵的旅游景点,就像是一个没有灵魂的人,景色再美,也经不住时间的推敲和人们的考验。旅游资源不只需要依赖于一定的自然条件,更需要依赖经济文化条件。所以,研究如何挖掘旅游资源的文化内涵是推动当地旅游发展的重要载体。笔者通过考察走访,从联系历史背景与历史人物,结合当地特产特色,不断进行丰富沉淀,保护文化内涵不消灭四个方面对于如何挖掘旅游资源的文化内涵给出了一些建议。 一、联系历史背景与历史人物 旅游业想要生存和发展,就必须要依靠旅游资源,拥有足够丰富的旅游资源才能够吸引游客的目光。旅游资源往往分为自然旅游资源和人文旅游资源。人们在选择旅游目的地和旅游产品时,越来越开始更加重视他们的文化内涵。那些自

日本《平家物语》

Oral Tradition, 18/1 (2003): 30-32 日本《平家物语》 Yamashita Hiroaki 《平家物语》(Heike monogatari)是日本最长的武士传说(ikusa monogatari)之一。现今遗存的有好几个版本,都是讲述源氏(Genji)和平良(Heike)之间爆发的源平合战(大概发生在公元后1180-85年间)。这些不同的版本主要分为两类:一类着重赞扬源氏幕府的成就,一类则主要讲述平良族的没落。 很多学者通过研究现存的不同版本来寻找相关文本的历史发展轨迹。其中比较显著的研究工作主要是确定作者的相关思想定位、和最接近源氏文本的版本。还有另外一小组学者主要是研究相关的口头传诵文本。他们着重研究十四世纪中期的书面文本,这些文本恰是《琵琶日志》(biwa h?shi)的表演基础(盲人表演者伴随着琵琶演奏进行表演)。有一些学者主要研究如何阅读《琵琶日志》的书面文本。 但是研究口头文本的学者现在面临着一个严峻的问题,那就是这些现存文本的特质。一些研究口头传统表演的学者对如何分析书面文本存有质疑,他们强调说这些表演是属于非文本性质的。他们认为现存的《平家物语》并不是仅仅用来记录口头表演。因此,口头表演和书面文本的关系是学术研究的一个颇具争议的课题(关于日本的口头传统和《平家物语》的比较,参见Hy?do Hiromi:2000,Komoda Haruko & Matsuo Ashie:1996,和Yamashita Hiroaki :2000)。 学术界很有名的一个学术运动是研究《平家物语》的不同版本和它们对中世纪、现代早期的叙述传统故事的影响之间的关系。不同的校订版本都重复了同一个关键主题:平良族的没落和远离贵族势力的源氏的崛起。不管是不同版本的区别、还是相同点,都说明了这一历史事件的重要性。另外,平家传说也促进了其他战争传说的诞生。同样重要的是,其他艺术表演也同样促进了《平家物语》传说不同版本的衍生。即便是今天,我们仍然发现与平家族武士被击败有关的口头传说。中世纪的书面形式固定了《平家物语》,因此它对收集口头传统的地区产生了影响。因此,我们的首要重点是研究发掘日本口头传统、口头化、书面化、和音乐之间关系的主要问题。 Aichi Shukutoku University Trans. By Elizabeth Oyler 参考文献

对《中庸》中“诚”的文化内涵的历史阐释

【内容摘要】“诚”是中国传统哲学中重要的思想范畴,在思想史上,《中庸》是第一部对“诚”进行了深入系统阐释的儒家经典。在《中庸》中,“诚”具有本体论、道德论的双重文化内涵,成为天人合一的枢纽。本文利用训诂学中关于汉语词源、词义引申的原理和方法,结合格式塔心理学、认知语言学的理论,探讨在《中庸》对“诚”的哲学阐释背后蕴藏着的中华民族文化思维与观念的世界,并在这一层面对“诚”的文化内涵进行历史阐释。文章认为,就词义而言《中庸》中的“诚”与春秋时期的“壹”词源意象与引申义列十分相似;“壹”和“诚”都有“聚合—充实”的词源意象,“诚”所体现的正是在它词源意义里涵盖的“凝聚充实、专一不贰”的核心思想。通过这一解释,本文对训诂学在历史文化研究中的独特价值进行了反思与阐释。 【关键词】诚;壹;词源意象;引申;比较互证。 【作者简介】孟琢,北京师范大学文学院博士研究生,研究方向:训诂学。 一、问题的提出与方法论的说明 “诚”是《中庸》核心的哲学范畴之一,具有本体论、道德论的双重内涵。张岱年先生指出:“诚本是一种合内外之道,而亦可说是一种合天人之道。”[1]它贯通了本体论和道德论,是沟通天道人道、实现天人合一的枢纽。在《中庸》之前的文献中,能见到的“诚”字很少。经史著作中仅见四例: 《左传·文公十八年》:“齐圣广渊,明允笃诚。” 《国语·晋语三》:“贞为不听,信为不诚。” 《大雅·崧高》:“申伯还南,谢于诚归。” 《论语·颜渊》:“诚不以富,亦祗以异。” 《论语》中的“诚”是情态副词,其余三例均为“诚信、诚实”之义,皆无《中庸》中“诚”所具有的本体论内涵。因此,学者一般认为《中庸》对“诚”进行本体论阐释是一种哲学上的创新。我们要追问的是:(1)“诚”有没有可以追溯的思想史渊源?(2)同样表示诚信,为何“诚”具备本体论的内涵,“信”不具备? 本文认为,“诚”源自春秋时期“壹”的观念,其本体论内涵由先秦特定的文化思维模式所决定。为了证明此点,我们借助传统训诂学中关于词义引申、汉语词源的理论。引申指“词义从一点出发,沿着本义的特点所决定的方向,按照各民族的习惯,不断产生相关的新义或派生同源的新词,从而构成有系统的义列”[2]。引申以“词义特点”为灵魂,它源自造词的理据,并贯穿于词义引申的全过程[3]。关于词义特点,需要说明三点:第一,就语言本质而言,词义特点是人类在造词过程中对客观事物的特征的理解和取象。词源学用“意象”来说明它的实质,“意象是古人理解事物特征的形成方式和过程的概括抽象出的图像”[4],又称之为词源意象。第二,就语言结构而言,词义特点是词义的内在理据,它的语言单位是义素而不是义项。第三,就语言描写而言,词义特点难于抽象概括,一般通过词组的搭配来描写它的形象特点与动态过程。 在词义引申的过程中,不同的多义词往往沿着相类似的线路进行引申,陆宗达、王宁先生称之为“比较互证”[5]。例如“过”“越”的本义都是“经过”,其引申线路如下[6]: 过:经过、经历——超过、过分——过错——扩散 越:经过、经历——超过、过分——迂阔——传播、宣扬 “比较互证”的现象大量存在,它反映出人类思维的规律性——既反映出个体的认知规律,

临颍县历史文化内涵介绍

临颍县历史文化内涵介绍 一、历史文化 临颍县位于河南省中部,居黄淮平原,处中原腹地。历史悠久,沿革多变,文化底蕴深厚,文化氛围浓郁。大约五千年前,我们的祖先自县西北入境,沿着古颍河向东南迁徙,分居在今灵子岗、楚王陵、清泥冢、华严寺等近河高埠处繁衍生息。古属豫州之域,春秋属许国,战国属魏,秦属颍川郡。西汉初年置县,因滨临颍水而得名,迄今已有2200多年的历史。 全县辖821平方公里,15个乡镇,363个行政村,779个自然村共74.8万人。目前经省文物局认定的文物保护单位有179处。其中国家级文物保护单位:汉魏政权交替的佐证受禅台与受禅碑、早于赵州桥的隋代小商桥共3点2处;省级文物保护单位有宋代抗金名将杨再兴陵园、文庙大成殿等6处,市级文物保护单位有大石桥、谯楼等5处,县级保护单位有贾咏墓、山陕会馆等27处,县境内有“十六座连城”之说。即纣城、吴城、刘城、张城、、李城、曹城、洛城、夏城、黄连城、高宗城、平宁城、杨斐城、豢龙城、窝城、固厢城、繁城。近年经过考察、各城皆有来历,多属三代及两汉、三国文化遗址。 在历史的长河中,先人们不仅创造了大量的有形文化遗产,也创造了丰富的无形文化遗产,截止目前包括民间文学、传统音乐、传统舞蹈、传统戏曲、传统曲艺、传统手工技艺、民间

民俗,传统体育竞技杂技等非物质文化遗产可立项共计1007项。特别是南街村的“双人旱船舞”已公布为省级非物质文化遗产名录。市级非物质文化遗产有心意六合拳、肘胳、二夹弦、洪家五香牛肉、柳荆编制技艺等共计17项、县级非物质文化遗产有临颍县古乐社、大铜器、王小兵牵正膏药等共计23项。对其精心呵护,传承发展,是政府和全民的共同职责。 二、人物文化 历代忠臣孝子、义夫节妇层出不穷。 西晋荀嵩((262-328)颍川临颍(今河南临颍西北)人。羽林右监荀覠子。志操清纯,雅好文学,为当时名流王济等人所器重。泰始中,为司马允文学掾,累迁侍中、中护军。晋元帝即位,授尚书仆射,与刁协共定中兴礼仪。明帝时,平王敦有功,封爵,授光禄大夫、录尚书事,加散骑常侍。成帝初,苏峻叛乱,与王导等人共同侍卫成帝。咸和三年死,谥敬。) 刘氏宗亲鼻祖--刘累(生于夏廑帝三年癸未(公元前一八九八年,相传夏朝帝孔甲之时,天降二龙落于豢龙村,惊动孔甲,宣百官商议此事。有臣举荐豢龙氏前去养龙,又推荐其徒弟刘累担当此任,刘累连夜赶往豢龙,于村东南角挖潜沟一条,放入清水,以木为柱,芦席盖顶,放二龙于水中静养,正值盛夏,天气炎热,腥气百里,不久一雌龙死,刘累将龙肉加工成美食,肉送宫中,孔甲食肉之美,又向刘累求食,刘累怕死龙

著名翻译家及其作品不完全名单

著名翻译家及其作品不完全名单: 英语 林纾《巴黎茶花女遗事》《鲁宾孙漂流记》《伊索寓言》等 严复《天演论》 周瘦娟等《福尔摩斯探案全集》1916年 郭沫若《浮士德》,《少年维特之烦恼》,《战争与和平》,《雪莱诗选》,马克思著作若干。 张谷若哈代《德伯家的苔丝》,《还乡》,《无名的裘德》,哈代翻译专家 朱生豪莎士比亚作品 张友松马克吐温翻译专家,比如《竞选州长》 查良铮俄国普希金作品,英国浪漫派诗歌:《济慈诗选》《拜伦抒情诗选》《雪莱抒情诗选》《唐璜》等 赵萝蕤(女)《草叶集》,艾略特《荒原》 朱维之主要翻译弥尔顿。弥尔顿《失乐园》,《复乐园》,《力士参孙》 萧乾《莎士比亚戏剧故事集》,夫妻合译《尤利西斯》(译文版),辛克莱《屠宰场》(合译),《弃儿汤姆琼斯的历史》(合译),《光荣与梦想》,《麦克米伦回忆录》,《拿破仑传》,《战争风云》(皆为合译)易卜生《培尔金特》 金堤《尤利西斯》(人民文学版1994) 《尤利西斯》译者还有:李虹,李进,纪江红,章影光,刘象愚等 李文俊福克纳《喧哗与骚动》(首译),卡夫卡《审判及其它小说》,麦卡勒斯《伤心咖啡馆之歌》王佐良《英国诗文选译集》,《彭斯诗选》,《苏格兰诗选》。主编《英国文学名篇选注》等 袁可嘉《英国宪章派诗选》,《叶芝抒情诗精选》,《布莱克诗选》。主编《外国现代派作品选》 汤永宽卡夫卡《城堡》,泰戈尔《游思集》,《采果集》,海明威《永别了武器》 杨德豫《朗费罗诗选》,《柯尔律治代表作三首》,《湖畔诗魂——华兹华斯诗选》,《拜伦抒情诗七十首》 江枫《雪莱诗选》 冯亦代《美国短篇小说集》(合译),斯坦贝克《人鼠之间》, 黄雨时狄更斯《奥列弗退斯特》,康拉德《黑暗深处》,乔伊斯《青年艺术家画像》等 陈良廷《乱世佳人》,《教父》,刘易斯《纳尼亚》系列,《曼斯菲尔德短篇小说选》,劳伦斯《儿子与情人》等 卞之琳《西窗集》,《英国诗选》,《莎士比亚悲剧四种》,《莎士比亚抒情诗选》 方平《莎士比亚喜剧五种》,莎士比亚悲剧多种,《呼啸山庄》,主编《新莎士比亚全集》 屠岸《莎士比亚十四行诗集》,《济慈诗选》 目前中国《莎士比亚全集》有朱生豪,梁实秋,方平三种。 林疑今《永别了武器》 杨必《名利场》 法语

乐山大佛的历史文化内涵

一、乐山大佛开凿之初的历史文化背景 乐山大佛修造耗用时间近一个世纪,屹立至今已有1200多年历史,乐山大佛当时的开凿不仅仅是一种宗教上的信仰,还具有一定的历史意和政治、文化、交通等多种元素。只有很好的研究和挖掘乐山大佛当时开凿时的历史源渊,才能更好的宣传乐山大佛的佛教文化思想,更好的保护和发挥乐山大佛的历史文化价值,推动乐山大佛的文化艺术研究和保护。 据民间传说,当时乐山上有一座凌云寺,凌云寺里住持是海通和尚。当时凌云山下有岷江、青衣江、大渡河三江交汇,水深流急,波涌浪翻,经常吞没行船,危害百姓。海通和尚眼看船毁人亡,心中十分不忍。他想三江水势这样猖獗,水中必有水怪,要是在这岩石上刻造佛像,借着菩萨的法力,定能降服水怪,使来往船只不再受害。民间传说虽然具有一定的神话色彩,但也反应了当时人们对大自然的认识和当时人们的文化思想意识,从测面也看到了我们的祖先在治理大然时特有的文化智慧,也可感受到当时的自然风景和文化背景,这也是我们研究历史文化的重要参考资料。根据唐代韦皋《嘉州凌云寺大弥勒石像记》1[1]和明代彭汝实《重修凌云寺记》2[2]等史料记载,乐山大佛开凿的发起人是海通和尚,海通是贵州人,结茅于凌云山中,乐山处在岷江、青衣江、大渡河三江汇流之处,水势相当的凶猛,舟辑至此往往被颠覆,每当夏汛,江水直捣山壁,常常造成船毁人亡的悲剧。海通和尚见此立志凭崖开凿弥勒佛大像,欲仰仗无边法力,“易暴浪为安流,减杀水势,永镇风涛。”3[3] 根据韦皋撰《嘉州凌云寺大弥勒石像记》载:佛像于唐玄宗开元初年(公元713年)开始动工,当大佛修到肩部的时候,海通和尚就去世了。海通和尚圆寂后,工程曾一度中断。大约过了十年的时间,剑南西川节度使章仇兼琼捐赠俸金,海通的徒弟领着工匠继续修造大佛,由于工程浩大,朝廷下令赐麻盐税款,使工程进展迅速。当乐山大佛修到膝盖的时候,续建者章仇兼琼迁家任户部尚书,工程再次停工。四十年后,剑南西川节度使韦皋捐赠俸金继续修建乐山大佛。在经历了三代工匠的努力之下,至唐德宗贞元十九年(公元803年) 才完工,大佛修建前后历经90多年时间,近一个世纪之长。 从以上相关史料记载来看,乐山大佛当时的开凿具有很明显的生活实用性,而不仅仅是出于宗教信仰和佛教文化的动机,这也说明了佛教信仰对我们的社会和生活具有极其重要的意义。佛教的信仰在当时来说,是解决人们心理危急、生活困 1[1]唐代韦皋撰《嘉州凌云寺大弥勒石像记》:《文史杂志》2007年04期。 2[2]明代彭汝实《重修凌云寺记》:现珍藏于乐山凌云寺内。 3[3]唐代韦皋《嘉州凌云寺大弥勒石像记》。

著名翻译家及其翻译作品

著名翻译家及其翻译作品 英语 林纾《巴黎茶花女遗事》《鲁宾孙漂流记》《伊索寓言》等 严复《天演论》 郭沫若《浮士德》,《少年维特之烦恼》,《战争与和平》,《雪莱诗选》,马克思著作若干。 张谷若哈代《德伯家的苔丝》,《还乡》,《无名的裘德》,哈代翻译专家 朱生豪莎士比亚作品 张友松马克·吐温翻译专家,比如《竞选州长》 查良铮俄国普希金作品,英国浪漫派诗歌:《济慈诗选》《拜伦抒情诗选》《雪莱抒情诗选》《唐璜》等 赵萝蕤(女)《草叶集》,艾略特《荒原》 朱维之主要翻译弥尔顿《失乐园》,《复乐园》,《力士参孙》 萧乾《莎士比亚戏剧故事集》,萧乾、文洁若合译《尤利西斯》,辛克莱《屠宰场》(合译),《弃儿汤姆·琼斯的历史》(合译),《光荣与梦想》,《麦克米伦回忆录》,《拿破仑传》,《战争风云》(皆为合译)易卜生《培尔金特》 金堤《尤利西斯》(人民文学版1994) 《尤利西斯》译者还有:李虹,李进,纪江红,章影光,刘象愚等 李文俊福克纳《喧哗与骚动》(首译),卡夫卡《审判》及其它小说,麦卡勒斯《伤心咖啡馆之歌》王佐良《英国诗文选译集》,《彭斯诗选》,《苏格兰诗选》。主编《英国文学名篇选注》等 袁可嘉《英国宪章派诗选》,《叶芝抒情诗精选》,《布莱克诗选》。主编《外国现代派作品选》 汤永宽卡夫卡《城堡》,泰戈尔《游思集》,《采果集》,海明威《永别了武器》 杨德豫《朗费罗诗选》,《柯尔律治代表作三首》,《湖畔诗魂——华兹华斯诗选》,《拜伦抒情诗七十首》 江枫《雪莱诗选》 冯亦代《美国短篇小说集》(合译),斯坦贝克《人鼠之间》 黄雨时狄更斯《奥列弗·退斯特》,康拉德《黑暗深处》,乔伊斯《青年艺术家画像》等 陈良廷《乱世佳人》,《教父》,刘易斯《纳尼亚》系列,《曼斯菲尔德短篇小说选》,劳伦斯《儿子与情人》等 卞之琳《西窗集》,《英国诗选》,《莎士比亚悲剧四种》,《莎士比亚抒情诗选》 方平《莎士比亚喜剧五种》,莎士比亚悲剧多种,《呼啸山庄》,主编《新莎士比亚全集》 屠岸《莎士比亚十四行诗集》,《济慈诗选》 目前中国《莎士比亚全集》有朱生豪,梁实秋,方平三种。 林疑今《永别了武器》 杨必《名利场》

云意象的历史文化内涵

云意象的历史文化内涵 冥芒世间物,总是以某种内涵进入人们的头脑之中。实际上,是人们在劳动生活中对万物认识的加深而对其附加某种情感因素,从而寄托着某种精神内涵,成为人们寄情于物的对象。特别是文人诗者,其情感的因素始终系在世物之中,物动牵情。是而在诗人们的作品中的意象不仅是简单的具象,更是含括着诗情人性的理念。在诗歌意象之中,最为常见的不过花花草草,山山水水,风云雷雨,鸟虫鱼兽等。从这些意象之中,我们不但可以看到一个万象界限,而且借助意象能解读诗人的思想精神,生存状况等。诗歌意象蕴含着某种诗人个人的精神内质,解读者可以从某种意象中看到诗人的思想情感,从而知晓诗人的人生境界。“云”作为中国古典诗歌常见的意象,很早就已为人们所注意,并进入诗歌审美之中。诗经里便有: 出其东门,有女如云。虽则如云,非我思存。 ——《郑风.出其东门》 敝笱在梁,其鱼鲂鳏。齐子归止,其从如云。 ——《齐风.敝笱》 英英白云,露彼菅茅。天步艰难,之子不犹 ——《都人士之仕.白华》 诗经之“云”多以意“多”。因于认识上的局限,见天上漫漫云朵,其实为众,是而认为众多。也有看云飘飘而产生感叹的,如“英英白云”句,看白云飘悠悠而想到时运之艰难,有几分惆怅,已有象征的义素。 楚辞之中“云”也不少,如: 飘云屯其相离兮,帅云霞而来御 ——屈原《离骚》 云霞来迎,一如亲友,可见诗人给予“云”的任达,浪漫之情采。 广开兮天门,纷吾乘兮玄云。 ——屈原《大司命》 此云能“乘”,可谓为行铺路。岂是云能行?诗者思行矣! 眇远志之所及兮,怜浮云之相羊 ——屈原《悲回风》 块独守此无泽兮,仰浮云而永叹。 ——宋玉《九辩.四》 “浮云”于高空飘荡,似高志之于理想,又不免“浮”而不定,何者?云因“浮”而难免有不能自控之处,因而高志遭疑总难免,此“浮云”实为诗人心中情感之云矣。 如果说《诗经》里的“云”仍是比较集体意识,那么《楚辞》里的“云”则已比较个性化。《诗经》之“云”仍多在实物与其本义的层面,而《楚辞》中“云”更注诗人的情感体验和情感色彩。如“云霓”成为拟人化的物象而恭迎诗人;是诗人用以遮天蔽日的“云”;“玄云”则为乌云,有迎风乘云之宏势;而以“青云”为衣“白霓”为裳,寄寓诗人精神上的舒放壮达;有时“云霏霏”弥漫天宇,仿佛把诗人的欢乐都笼罩去了,“云”即有黑暗势力之意;诗人心中的“浮云”则含有一种浮离不定之感,其飘其止仿佛其身其志,因而发出哀叹之声;而“云蒙蒙”则明显地指希望太阳(光明势力)耀长空,可恨乌云(黑暗势力)来迷蒙。总而言之,楚辞里“云”意象已具很强个性色彩,含有更多的是其本义之外的象征义。 古代诗歌中的云,既具有自然的物质属性,又被诗人们赋予了丰富的内涵,体现了深刻的人文精神和深厚的文化意蕴。《论语·述而》云:“不义而富且贵,于我如浮云。”浮云往往比喻

从《平家物语》苏武故事看日本中世纪的武士道精神

第8卷第3期2007年6月 湖南农业大学学报(社会科学版) Jo哪a1ofHunanAgricultumlUniVersity(SocialSciences) v01.8No.3 Jun.2007 从《平家物语》苏武故事看日本中世纪的武士道精神 丁瑜 (湖南工业大学中文系,湖南株洲412007) 摘要:<<平家物语)>中插入了大量《史记》、《汉书>)等中国史书中的豪侠义士的故事。作品在引用中国苏武故事的同时,也对它有所改造。这是因为苏武的身上不仅有着许多与日本武士相同的地方,如忠孝、勇武,也有与之相异之处,那就是日本的武士比中国的武将更讲究风雅。《平家物语)>的作者用苏武的故事分别比照日本武士康赖、兼康和维盛,有力地突出了中世纪日本武士身上所具有的忠孝、勇武、风雅的武士道精神。 关键词:平家物语;苏武;武士道 中图分类号:1109.3文献标识码:A文章编号:lI)09—2013(2007)03一0100.03 中日文学交流历史悠久,并对日本文学产生了极大的影响。在《平家物语》中就可以清楚地看到这种影响的痕迹,是日本中世纪军记物语的代表作。《平家物语》全书引用中国文词典故共124处,直接引用原典文旬的有72处,借用汉文典故的有52处,所引用有确切出典的为108处。这108处引文所涉及的古籍,从先秦到汉代有25种之多。这些典故涉及到中国的许多豪侠义士,如苏武、荆轲、田光、樊于期等。笔者欲以苏武故事为例,透视作品所反映出的日本武士道精神。 《平家物语))刻画了平清盛、平重盛、康赖、兼康、木曾义仲、源赖朝等一系列鲜明的武士形象,热情赞美他们身上所具有的那种忠诚、勇武、重名声、重廉耻、知风雅的武士精神。在描写中,作品插入了大量中国史书中的豪侠义士的故事,其中苏武的故事尤显突出。现从中摘出部分进行比较: 昔时汉武帝进攻匈奴,大将军李少卿被胡王生擒。之后,以苏武为大将军,带兵五十万骑前去,可是汉兵力弱,胡兵强大,官军再次败亡,兵卒被生擒了六千余人,其中以苏武为首,挑出主要士卒六百三十余人,各砍去一只脚,赶了回去。许多人当时就死了,其余的过了不久也都死了,只有苏武不曾死去,成为独脚的人,上山拾树木的果实,春天采泽里的芹菜,秋天拾田里的落穗,勉强维持危浅的生命。但是田野中的鸿雁却与苏武熟了,并不惧怕他。苏武见此情景,心想此等鸿雁往来我的故乡,不禁动了思乡之情,于是便写了一封书信,对鸿雁道:“请把此信带给汉王吧!”系在翅膀上放它飞 收稿日期:2007—04一10 作者简介:丁瑜(197I一),女,湖南醴陵人,讲师,文学硕士,主要从事东方文学、比较文学研究。 去。到了秋天,鸿雁果然如约从北方飞到京城去,汉昭帝那时在上林苑作乐游玩,时值薄暮,天色阴沉,景色有些悲凉,恰有一行鸿雁飞了过去。其中有一只飞落下来,用嘴将缚在翅膀上的一封书信咬开来,落在地上。官吏拿了这信呈送给汉王,打开看时,上面写道:“从前被关在岩窟内,经过三年之愁叹,今又抛于旷野,成为胡地独足之人,纵使尸骸陈于胡地,魂则复归于君侧。”自此以后,书信被称为雁书,或日雁札。汉王看了说道:“唉,真是可怜,这乃是苏武的笔迹呀,他还在胡地活着呢!,,于是命令将军李广带兵百万骑前去。这回可是汉兵强盛,终于战胜了胡国。苏武听说本国得胜,乃从旷野爬了出来,说道:“我就是从前的苏武呀!”他被砍去一只脚,经了十九年星霜,乃被用轿抬着,回到故乡去。苏武十六岁时,初往匈奴,汉王给他的旗始终藏在身上,现在才取出呈献给汉王,君臣无不感叹。苏武因为对君有无比的大功,赐给他许多采邑,据说还派他任典属国的职务。 汉朝的苏武附书于雁翅以寄故乡,本朝的康赖则托海浪传达和歌于故里;在彼为一纸感怀,在此则两首和歌;在彼为古之盛世,在此则末世衰微;胡国与鬼界岛境界相隔,时代亦殊,然而风情却颇相似,这是很可珍重的“】82“3。 木曾义仲获悉水乌战败的消息,认为事有不妥,便率一万骑驰往山阳道。平家武士备中国住人濑尾太郎兼康在北国交战时曾被加贺国住人仓光次郎成澄所俘,关押在成澄弟弟仓光三郎成氏那里。木曾公知道他是世上闻名的大力士,认为杀了可惜,就未杀他。而仓光也觉得他为人很重情义,因而待他很宽厚。这正如苏子卿被囚匈奴,李少卿不得归汉一样,正所谓远托异国昔人所悲,韦鞲毳幕以御风雨,膻肉酪浆以充饥渴,入夜寝无多时,白昼勤苦终日,伐木刈草迄  万方数据

合肥历史文化内涵探析

合肥地名历史文化内涵探析 [摘要]合肥地名主要可分为描写自然景观的描述性地名、记录人文历史的记叙性地名和寄托愿望情感的寓托性地名等三大类。地名不是单纯的区分地理实体的标志,而是地域社会发展进程的记录者。合肥的老地名包含着丰厚的文化象征意义,就整体而言,合肥老地名主要与重大历史事件、重要历史人物、民间文化传说相关联,体现了自然与人文的有机统一。 一、引言 地名,是人们对具有特定方位、地域范围的地理实体赋予的专有指称,是区别地理实体的一种标志。地名又是“层累”式形成的,经历了由当地少数人使用到逐渐为众人熟知直至被社会大众广泛接受,最终进入相对稳定的状态,可以视为某一地域社会开发的象征,记录该处历史发展脉络的活化石。地名在其漫长的演变过程中往往附加了丰富的文化内涵,成为传承历史文化的载体,是我们了解地方历史的重要切人口。 合肥,是一座具有2000多年悠久历史的文化古城,人文底蕴丰厚,形成了大量的合肥特有的地名文化遗产,诸如“~人巷、二郎庙、三孝口、四牌楼、五星寺、六谷祠、七星街、八腊庙、九狮桥、十字桥”等别具特色的地名,就颇能彰显合肥风貌。如今,逍遥津、教弩台、藏舟浦、斛兵塘、争笛浦等地名已经成为见证三国时期魏吴逐鹿合肥宏大战争场面的重要历史遗迹,包河、清风阁、孝肃桥、李鸿章故居、刘老圩等地名则记述了包拯、李鸿章、刘铭传等合肥历史名人的成长历程。这些地名在一定程度上成了向外界展示合肥独特魅力的城市名片。 本文将主要依据《安徽省合肥市地名录》所记录的地名,在分类整理合肥地名的基础上,对其历史文化内涵进行挖掘。由于地名数量繁多,本文无法涉及到每个地名,仅能选取部分具有典型意义的。文章疏漏不当之处,祈请方家批评指正。 二、合肥地名的类型 地名主要由专名和通名组成,专名用来区分各个地理实体,即为地定位;通名用来区分地理实体类别,是为地定类。根据现代地名学的命名特点,本文把合肥地名分为三类,即描写自然景观的描述性地名、记录人文历史的记叙性地名和寄托愿望情感的寓托性地名。 (一)描述性地名 描写或叙述地理实体的方位、距离、地理形态、物产等自然地理特征的地名,称为描述性地名。在合肥地名中,这类地名最为常见。其实,从合肥的命名中,我们就能够很明显地看出地理因素的影响。 合肥之名,始见于《史记·货殖列传》:“合肥受南北潮,皮革、鲍、木输会也”。光绪《续纂庐州府志》卷四《沿革志》载:“秦始为楚郡,始皇二十六年庚辰定为九江郡,郡治在襄安,统合肥、居巢、

平家物语读后感_读后感_模板

平家物语读后感_读后感_模板 平家物语读后感(一) 钟声的回响 Iyenasu “祗园精舍之钟声,响诸行无常之道理。婆娑双树之花色,显盛者必衰之真谛。骄奢者绝难长久,宛如春夜梦幻。横暴者必将覆亡,仿佛风前尘埃。”——《平家物语》卷首语伴随着祗园里的阵阵钟声,日本中世名门望族——平家的兴衰剧,就此上演。平家因族长清盛入道而兴,亦因清盛入道而衰。替天皇讨伐源氏一门,故平家起初兴旺;视天皇如同掌中玩物,故平家最终衰败。平家以武勇夺得大权,却因享乐失去天下。正所谓“忧劳可以兴国,逸豫可以亡身。”而清盛掌握大权后,既耽于女色,不思进取,又暴虐无道,倒行逆施,亦是“祸患常积于忽微,而智勇多困于所溺。”拜他所赐,平家一门日渐衰颓,虽有小松中将重盛折冲樽俎,挽狂澜于既倒,也无法阻止平家一门向末日狂奔。当压抑许久的源氏不再沉默,在“旭将军”木曾义仲和源赖朝的带领下奋起反击时,平家满门男儿,竟无一人能挽狂澜于既倒,空有带甲百万,良将千员,却如腐草之荧光,比不上源氏这轮天空之皓月,被士气高涨的源氏打得节节败退,最终几乎满门覆灭,着实让人扼腕叹息。而后起的源氏也终将走上前人的不归路,又不禁引人深思。而这一切,早已在祗园里的钟声中昭示于天下。 西洋人将《平家物语》比作日本的《伊利亚特》,在下认为此言也有可取之处。譬如本书卷首语,就与赫克托尔的叹息有异曲同工之妙: “有朝一日,这神圣的特洛伊和普里阿摩斯,还有普里阿摩斯的挥舞长矛的人民,都将灭亡。” 无论是盛极一时的平家,还是难攻不落的特洛伊城,在时间的流逝下,都将化为灰烬。面对此等不可抗拒的力量,再豪气万丈的英雄也无力回天。西庇阿在迦太基的废墟上吟诵赫克托尔的话语,哀叹自己的祖国罗马也将遭受灭国的厄运;织田信长在与名将今川义元决一死战前,也想起了平家敦盛的故事,超然物外的唱到: “人间五十年,与天下相比,如梦亦似幻,一度得以生存者,岂能有不灭之理。” 由此他便展开了自己二十余年的野望之路,可谁又曾料到,这同一句话竟也成了他被叛军包围时,无可奈何吟诵的辞世句呢? 或许我们不该光去哀叹人事无常,命途多舛。实际上。命运并不是无法捉摸的,它虽然是我们一半行动的主宰,但是它留下其余一半或几乎一半供我们支配。盛者虽然必将衰败,但盛者可砥砺前行,负重致远,尽力维持兴盛;骄奢之人确实难以长久,横暴之徒也终将自寻死路,但骄奢之人放下屠刀,亦能立地成佛,横暴之徒幡然醒悟,也能浪子回头。明治维新之所以能大获成功,除了维新志士的前赴后继,也跟作为对手的德川幕府止戈为武密切相关。残酷无情的阿育王之所以能流芳百世,也是因为他在得到了生命真谛后痛改前非,乐善好施,才得以名垂千古。而书中的平家亦因为有人一心向佛,最终得以在海底往生极乐。若无此等有识之士回头是岸,亦无历史上的灿烂千阳。 更进一步来说,即使万事万物终将化作尘埃,对寻得人生意义的人来说,这也早已是身外之事了。平家确实是咎由自取,但他们也能成为警示后人的一次重要教训,告诫人们万万不可忘掉自身限度;特洛伊的灭亡是无可避免的,但在灭亡之前,他们如流星般掠过历史的天空,留下了《伊利亚特》里那一段段脍炙人口的传说;罗马的衰落也是命中注定的,但在步入暮年之前,他们留下了遍布欧洲的大道和流传至今的罗马法,让我们至今还能说:“让我们感到奇怪的现象,并非罗马帝国为何灭亡,而是帝国怎么能维持这样长久。”;织田信长是含恨而终,但在他去世以前,他已为战乱频仍的日本指明了发展的方向。他们不论好坏

中国的文化内涵

下面从网上看到的一篇文章,文章中的观点也许过激,但是其举出的例证又让我无法辩驳。这就是丑陋的中国人吗?看后我无语…… 现在的西方有句俗语:别跟我耍中国人那一套!中国人的聪明是有名的,我们的“国粹”麻将牌即是一例。打麻将的乐趣绝非仅仅在赢钱,而在于打的时候,需要用尽各种心思骗上家盯下家,有时候要故意打好张,有时候又特意要喂一口,欲擒故纵,真真假假,羊头狗肉,声东击西,明修栈道,暗渡陈仓,上下其手,两面三刀……这哪里是打牌,完全是一种心理战。据说老外一直学不会咱们的麻将,原因就在于,人家没有我们这么多花花肠子,这一套对他们来说太复杂了。他们最典型的赌博,就是轮盘赌,全凭运气或概率,最笨的就是,拿一把左轮手枪,里面装颗子弹,大家轮流向太阳穴射击,看谁命大。最最笨的还有,就是那种决斗,两个人直接用剑残杀,或站在一定距离开外,互相瞄准射击。天底下还有这么笨的人嘛。看看我们的小小麻将,其中蕴含着多少机巧谋算,里面浓缩的可是我几千年的中华智慧啊!中国人就是靠这种智慧才生存下来的。中华文明为什么不像别的文明消亡、断裂?就因为我们每个人都会打麻将。我已在多处谈到,中华文明是一种没有血性的文明,一种自我保存至上的文明,一种苟且偷生的文明,一种算计别人的文明,一种不断进行着“人种逆淘汰”的文明。中国的历史越久远,中华的文明越绵延,中国人的质量就越是退化,也就是越活越“滑头”的意思。大概在几年前吧,看到一则消息,说美国在三军中展开了学习“孙子兵法”热潮。当时看到此消息后一方面深感自豪,看来老美还是得向中国人借智慧;一方面也觉得疑惑,难道像什么“借刀杀人”、“落井下石”、“偷梁换柱”、“过河拆桥”、“瞒天过海”等等计谋还需要正儿八经去学习吗?对中国人来说,这些可都是一种遇事时的自然反应而已。从这里,我们也可以知道,许多老外还是比较老实的。在中国人面前,他们的智力不够用,经常被整得鼻青脸肿,狼狈不堪。这些年有一件事情颇让我痛心,那就是我们的现实在不断地糟踏好词,比如“小姐”,比如“同志”。还有一个被毁掉的好词是:“老实”,今天如果谁称赞另外一个人“老实”,

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