综合日语教程第六册 第七课 文章について
(完整版)《高级日语》课程教学大纲资料

《高级日语》课程教学大纲课程编号:D20662B0课程属性:必修学时:146学时学分:7先修课程:中级日语、日本文学史、日本概况、日语实用语法考核方式:考试使用教材:陆静华主编,《日语综合教程》(第五册),上海外语教育出版社,2006年陈小芬主编,《日语综合教程》(第六册),上海外语教育出版社,2006年季林根主编,《日语综合教程》(第七册),上海外语教育出版社,2011年主要参考书:陆静华、陈小芬主编,《日语综合教程第五、六册课文翻译与练习答案》,上海外语教育出版社,2007年皮细庚主编,《日语综合教程》(第八册),上海外语教育出版社,2008年季林根、皮细庚主编,《日语综合教程第七、八册课文翻译与练习答案》,上海外语教育出版社,2009年周炎辉主编,《日语语法词法·句法》,湖南大学出版社,2000年一、课程的性质和任务高级日语是一门综合技能的课程,它涉及日语的听、说、写、读、译等多种实践能力的培养,是本科日语专业的专业必修课。
该课程旨在培养学生更进一步熟练掌握日语知识;提高学生实际应用语言的能力;丰富学生的日本社会文化知识,培养文化理解能力,熟练地掌握日语语法体系,使学生达到日本国际交流基金和日本国际交流协会设立的“国际日本语能力考试”的2级水平。
本课程是“中级日语”课程的继续,教学重点从一、二年级的讲解词汇、语法、句型逐渐过渡到分析文章、理解语言背后的社会心理文化,从而掌握地道的日语。
通过灵活多样的教学方法,充分调动学生的主观能动性,使学生积极参与课程教学。
教师不仅要分析文章、句子结构,还要介绍大量的语言文化背景知识,避免“中国式日语”的出现,为学生在今后的工作中使用日语打下坚实的基础。
二、教学目标与要求高级日语教学的目标是:培养学生具有较强的阅读能力和较高的听、说、写、读、译的能力,使他们能用日语交流信息。
培养学生良好学习作风,正确掌握良好的语言学习方法。
培养学生逻辑思维能力,丰富社会文化知识,以适应社会发展和建设的需要。
综合日语第六册 文章主旨

第一课日本人の心欲を出せばきりのない安んじて暮らし、和を保つため、己を抑制するやたらに主張・物事をあからさまにしない争いを好まず、自然の運行に任せる楽観的よりも悲観的な民族臆病であり、小心であるそこから満足が得られる日本人の精神の構えとは、己の楽観的な期待を、悲観的な観点から抑制し、何とか一応の満足を得ようとすることである第二课結論自然というものは、頑固に守らないと、歴史が崩れるような気がする。
そのためには、竹がためてきたことを聞いてやる時間が必要で、学知よりも、そっちの方に美しさがある、と思う。
全文の要旨竹を切って、紙に漉いたり、人形面にしたりして、二十年たつが、ものも言わぬ竹ながら、何やかや教わるものが多い。
手をかけないでほうっておくと、竹藪はジャングルになって竹が泣いているし、竹を切り殺して造成するので、竹が号泣している気がする。
自然というものは、頑固に守らないと、歴史が崩れるような気がする。
竹から教わるものは、学知世界よりも美しい。
たまには竹がためてきたことを聞いてやる時間が必要である。
第三课鹿おどしの特色とその効果①緊張の高まりと緊張からの解放②単純な、緩やかなリズムの無限の繰り返し③水の流れをせき止め、音に刻むことで返って流れ止まらないものの存在を強調する仕掛け日本で噴水が発達しなかった事情はいろいろあるが、その最大の理由は、日本人が水の自然に流れる姿を美しいと感じていたことにあると思われる日本人の水に対する独特の感性――東西文化の違い)*自然に流れる水の姿を美しいとする感性⇒形なきものを恐れない心の現われ*断続する音の間隙に流れるものを間接に心で味わうこと⇒「鹿おどし」は日本人が水を鑑賞する行為の極致を表す仕掛け日本人は形なきものを恐れない心をもっており、それゆえ音と音との間隙に流れるものを間接的に感じさせる「鹿おどし」は日本人の感性を最もよく表す仕掛けだといえる第五课私はいま、都心とは反対に向かう電車に乗って、或る人物に会いに行こうとしているが、その人物が、何故、これほど私をとらえてやまないのか、わからない。
日语综合教程第六册 单词表

一課間投詞かんとうし濃淡のうたん快晴かいせい宥めるなだめるややこしい飛んだとんだ理詰めりづめ追及ついきゅう暗黙あんもく景勝地けいしょうち背骨せぼねこぢんまり浜はま逆巻くさかまく打ち寄せるうちよせる見捨てるみすてる愛でるめでる同工異曲どうこういきょく荒海あらうみ入り江いりえ太古たいここの上ないこのうえない操るあやつる乗り切るのりきる辿り着くたどりつく取り巻くとりまく然るべきしかるべきバイキングVikingのし歩くのし歩く北欧人ほくおうじん民たみ制覇せいはならぬ住み心地良いすみごこちよい湿潤しつじゅん快適かいてき今更いまさら彼方かなた甘美かんび気質きしつ幾多いくた妥協だきょう探るさぐる言い分いいぶん己を抑制するおのれをよくせいするあからさま否応なくいやおうなく食い違いくいちがい成り立つなりたつ将棋しょうぎしばしば言下げんか意表をつくいひょうをつく落とし穴おとしあな欺くあざむくうんと一芸に秀でるいちげいにひいでる紛れもないまぎれもない構えかまえ見事にみごとに言い当てるいいあてる肥大ひだいともすれば折りに触れておりにふれて住処すみか二課芽吹きめぶき先駆けるさきがける根雪ねゆきうっすら(と)稜線りょうせん有るか無きかあるかなきかときめき心境しんきょう低木ていぼく摂理せつり下刈りしたがり凋落ちょうらく厳かおごそか佇まいたたずまい迫力はくりょく極致きょくち黒々くろぐろ静まり返るしずまりかえる奥深いおくぶかい愛着あいちゃく研ぎ澄ますとぎすます取り戻すとりもどす知れたしれた措くおく散策さんさく鼓動こどう触れ合いふれあい息づくいきづく魂胆こんたん笹ささ在所ざいしょ藪やぶジャングル工房こうぼう宅配便たくはいびん筍たけのこ手近てぢか細工さいく生家せいか閑寂かんじゃく尺八しゃくはち音色ねいろ日がなひがなせせらぐ子守唄こもりうた遊歩道ゆうほどうがっちり石垣いしがき雀すずめ紋様入りもんよういり乳母車うばぐるま根こそぎねこそぎ造成ぞうせいアプローチ殺風景さっぷうけい才覚さいかく化身けしん在り処ありか脂ぎるあぶらぎる邂逅かいこう三課愛嬌あいきょう気だるいけだるいシーソー水受けみずうけ筧かけひ溢すこぼす跳ね上がるはねあがるくぐもる音を立てるおとをたてる解けるほどける時を刻むときをきざむ静寂せいじゃく弥が上にいやがうえに引き立てるひきたてるせき止めるせきとめる待合室まちあいしつ素朴そぼく引き付けるひきつける華やかはなやか寛ぐくつろぐ趣向を凝らすしゅこうをこらす別荘べっそう草花くさばな添えるそえる轟くとどろく息を呑むいきをのむ迸るほとばしるせせらぎ間が抜けるまがぬける捻じ曲げるねじまげる粘土ねんど行雲流水こううんりゅうすい裏付けるうらづける間隙かんげき一昔ひとむかし猫背ねこぜジョーク言い古すいいふるす決まり文句決まり文句長らくながらく語り継ぐかたりつぐ先入見せんにゅうけんヒステリカルセッテル誇張こちょう独り歩きひとりあるき誰しもだれしもポーランドお人好しおひとよし正すただす枠わく嵌めるはめる頑なかたくな芽生えるめばえる誇らしいほこらしい蓋しけだしとらえどころ取り分けとりわけ飛びつくとびつく性癖せいへき安らぐやすらぐ身をもってみをもってヒーロー進路しんろ決断力けつだんりょく大まかおおまか拗れこじれ拘るこだわる繊細せんさい早飲込みはやのみこみ補強ほきょう増幅ぞうふく単なるたんなる枠組みわくぐみ格段かくだん恣意的しいてき慎重しんちょう五課猛暑もんしょ白茶けるしたちゃけるライト書き割りかきわり扉とびら咲き乱れるさきみだれる向日葵ひまわりパラソル明け方あけがた不整脈ふせいみゃく早朝そうちょう叩き起すたたきおこす通い詰めるかよいつめる興じるきょうじる萌葱色もえぎいろポロシャツ不義理ふぎり先頃さきごろミラノ連鎖反応れんさはんのう別棟べつむね司書ししょ華やぐはなやぐ無縁むえん老舗しにせ何やらなにやら焦るあせる駆り立てるかりたてる発送はっそう書店めぐりしょてんめぐり新刊書しんかんしょ文庫本ぶんこぼんささやか復刻版ふっこくばん癪しゃく値段が張るねだんがはるレジカウンターベテランきびきび輪郭りんかく定かさだか封印ふういん新米しんまいブックカバー折り目おりめ顔を赤らめるかおをあからめる栞しおりパンフレットタレント何の変哲もないなんのへんてつもない筆立てふでたてセロハンテープ剥ぐはぐ感叹词(味道,颜色)浓淡晴朗(用好话)抚慰,安抚复杂的,麻烦的与众不同,奇特的;严重的,以外的说理,以理服人追究不声不响景胜地背脊,脊梁骨小巧玲珑海滨,湖滨波浪翻卷,波涛汹涌涌来。
ビジネス文书について

第一章ビジネス文書について ビジネス文書について 文書ビジネス文書は会社と会社、生産業者と消費者、或いは商店と顧客といった相 互に利害関係を持つ者同志のあいだで、主に商品取引の業務に関して交わされる ものである。
つまり、一般の手紙とは、かなり間違った目的や内容を持っている ものである。
ビジネス文書はビジネスをスムーズに運びための文書であるが、 大ざっぱに 「社 内文書」と「社外文書」の 2 種類がある。
「社内文書」とは、会社内部のコミュニケションを図るために必要な文書であ 社内文書」とは る。
●上司や会社から部下へ(指示文、通達文、辞令など命令・指示を意味する文 上司や会社から部下へ 上司 から部下 書) ●部下から上司や会社へ (稟議書、報告書、企画書、始末書など) 部下から上司や会社へ 部下から上司 「社外文書」は、会社と会社の間の取引文書、仕事上の連絡文書及び会社間の 社外文書」 社交、儀礼文書などがある。
●日常業務関連のもの(依頼状、回答状、請求状、注文書、確認状など) ●仕事でのトラブルに関連するもの(お詫び状、抗議状、督促状、反駁状(は んばくじょう) 、断り状など。
) ●社交、儀礼関連のもの(挨拶状、案内状、招待状、紹介状、祝賀状、弔慰状 など)第一節 第一節ビジネス文書の ビジネス文書の基本 文書ビジネス文書 基本的な内容: 文書の 一、 ビジネス文書の基本的な内容:ビジネスでは読みやすい文書が求められます。
よって、 余白を多く取ったり、 箇条書きにしたりと、視覚的な工夫が必要です。
特に相手に伝えなければいけ ない必須項目は、5W2Hで正確かつ明瞭に表します。
ビジネス文書の5W2Hとは? 1. WHEN 2. WHERE (いつ) (いつ) いつ (どこで) どこで) 発信日、実施日、期限、期間、開催日時、決済日 会場住所、集合場所など。
地図、アクセスなどの資料 も添付。
综合日语教学大纲

综合日语(基础阶段) 教学大纲课程编码:209031课程英文译名:Comprehensive Japanese课程类别:学科基础课开课对象:日语系1-2年级学生开课学期:第1-4学期学分:40学分;总学时:640学时;理论课学时:640学时;实验学时:0学时;上机学时:0学时先修课程:无教材:《新编日语》1-4册,周平、陈小芬编,上海外语教育出版社,2002年5 月,第一版参考书:【1】《日本语表现文型200》初·中级,友松悦子等编,アルク(日本),2001年9月,第一版【2】《新日语基础教程》Ⅰ、Ⅱ,财团法人海外技术者研修协会编著,外语教学与研究出版社,2003年3月,第一版一、课程的性质、目的和任务《综合日语》是日语专业技能主要必修课,是一门培养学生听、说、读、写、译等综合技能的课程。
其目的在于传授日语基础知识,使学生全面掌握语音、词汇、语法、句型,对学生进行全面的、严格的基本技能训练,培养学生实际运用语言的能力,培养学生良好的学习作风和正确的学习方法,培养学生逻辑思维能力和独立工作能力,丰富学生的社会文化知识,增强学生对文化差异的敏感性,为学生学习高年级专业课程打下扎实的基础。
作为日本语言文学学科基础阶段的主要必修课,《综合日语》还应该和其它各门课程一起,力争保证学生能够在三年级上通过日语能力水平测试一级。
二、课程的基本要求要求学生通过本课程的学习,较扎实地掌握日语语音、基本语法和基本词汇,在此基础上能正确、熟练地用日语进行听说读写,达到语言交际的目的。
三、课程的基本内容及学时分配四、习题及课外教学要求课后布置作业,如句型造句、翻译等书面作业以及会话练习等口头作业,每次课后工作量为2~3小时。
五、考核方式及成绩评定《综合日语》为考试课,考试方式为闭卷。
成绩评定如下:平时成绩占30%,期中考试成绩占30%,期末考试成绩占40%。
综合日语(高级阶段)教学大纲课程编码:209031课程英文译名:Advanced Japanese课程类别:学科基础课开课对象:日语系3-4年级学生开课学期:第5-8学期学分:20学分;总学时:320学时;理论课学时:320学时;实验学时:0学时;上机学时:0学时先修课程:综合日语(初级阶段)教材:《日语》5-8册,陈生保等编,上海外语教育出版社,1998年参考书:【1】《中級から学ぶ日本語》,新井礼子等编著,研究社出版(日本),1994年4月,第一版【2】《上級で学ぶ日本語》,阿部友子等编著,研究社出版(日本),1994年12月,第一版【3】《大学・大学院総合日本語桜》,玉村文郎监修·编集,凡人社(日本),2002年2月,第一版一、课程的性质、目的和任务《综合日语》是日语专业技能主要必修课,是一门培养学生听、说、读、写、译等高水平综合技能的课程。
Gckdpo日语综合教程五六册部分课文中日对照

秋风清,秋月明,落叶聚还散,寒鸦栖复惊。
日语综合教程第五册第一课海の中に母がいる山好きの血が父方から流れているとすると、海好きは間違いなく母から伝わっている。
終戦間もなく、不忍池のほとりを通りかかると、池端に、ははがしゃがみこんで池の面をじっと見ている。
声をかけると、母は照れたような顔で立ち上げり「ちょっと海がみたくなって」と言って笑った。
当時、東大のそばに住んでいたので、買い物のついでに不忍池で休んでいたのだろうが、その時の母の言葉が妙に忘れられない。
小学六年の夏、母の故郷の鹿児島の辺鄙な漁村で一月暮らしたことがある。
母の父は背の高い、強い人で、そこでずっと医者をしていた。
家から五十メートルほどで海に出る。
桜島や開聞岳の見える美しい浜辺だった。
母が海を見たいと言ったのは、その故郷の浜辺のことを考えていたのかもしれない。
今なら二時間もかからない鹿児島は、その頃は夜行や連絡船で二日かかる遠い国だった。
望郷の思いに駆けられても当然だったような気がする。
海好きといっても、心ゆくまで海と親しんだのはその夏だけで、あとは学校から海水浴にゆく程度だった。
おそらく海と切り離された状態がかえって海への憧れを掻き立てたのだろう。
大学を出る年、なんとしても海に関係する職業につきたいと重い、日本郵船に入社できないか聞きに行った。
対応に出た人事課長は「うちも、ほかの会社と同じですよ。
文学出身では、どうもね」と気の毒がってくれた。
船会社だから、全員が船にのれるものと勘違いしていたわけだ。
それでも、船に乗って、海を思いのたけ味わいたいと言う気持ちは、いっこうに衰えなかった。
幸いフランスに行くことになり、留学生は船に乗るように、という指示があった。
マルセイユまで三十三日の船旅――考えただけでも嬉しさで気が遠くなりそうだった。
しかし仲間の留学生たちは、なんでそんな無駄なたびをさせるのか、と不満だった。
私は一人海の喜びを満喫するため、四等船室を選んだ。
第七课 文章について(文法)

一、言葉の学習一、目白押し 挤在一块儿,拥挤不堪鳥とりの目白めじろが枝えだに止とまるとき、一いっか所しょに何羽なんわも集あつまって止とまる習性しゅうせいがあるところから、大勢たいせいの人ひとやたくさんの物ものが一いっか所に集あつまって混こみ吅あっている様子ようすをいうが、本文中ほんぶんちゅうでは、書かきたいテてーマまが頭あたまの中なかにあふれるほどにあるという意味いみで用もちいられている。
①. 日本にほんはもう何回なんかいも行おこなったが、行いくたびに、スケジュすけじゅールるが目白押めじろおし[1] なのでゆっくりと見物けんぶつできなかった。
(日本已经去过好几次了。
每次去日程都排得满满的,无法好好地到处看看。
)②. 週しゅうに11回かいの朝市あさいちはとてもおもしろい。
狭せまい道端みちばた[2] に野菜やさいだの[3] 果物くだものだのを売うる露店ろてん[4] が目白押めじろおしに並ならんでいる。
(一周1次的早市很有趣。
狭窄的马路边摆满了蔬菜摊啦,水果摊啦等等。
)③. 書かきたいものが目白押めじろおしで待まっているようだったが.書かくとなると、なかなか筆ふでが進すすまなかった。
(想写的东西多得像要涌出来一般。
然而当我提笔写的时候却怎么也写不下去。
) ④. エジプトえじぷと文化財ぶんかざいの展示会てんじかいだから、お昼ひるを早はやくして出でかけた。
博物館はくぶつかんの入はいりロろにいる目白押めじろおしの見物人けんぶつにんに尻込しりごみし、結局見けっきょくみないで帰かえった。
(我早早地吃了午饭去看埃及文物展。
看着博物馆前吵吵嚷嚷拥挤不堪的人群,我打退堂鼓了,結果没看就回家了。
)⑤. 雑誌ざっしでは恋愛特集れんあいとくしゅうが、テレビてれびでは純愛じゅんあいドラマどらまが目白押めじろおしといった状態じょうたいだった。
「愛あい」というもののほとんど登場とうじょうしてこない小説しょうせつばかり書かいていた私わたしさえも、恋愛小説れんあいしょうせつを書かき始めた。
日语综合教程第六册课文翻译-第七课

写文章很苦。
但也很快乐。
想写的题目在脑子里等待着早日文字化。
在头脑工作状态良好时便会形成这种情况—说它们拥挤不堪地等待着一也不为过。
但是反过来想,写文章又令人敬畏,所谓写作是应该恐惧、应该谨慎的事。
人把自己所拥有的东西文章化。
此举既可以有益于他人,也可以给社会以刺激、向社会提出问题。
但是人“所拥有的”是有限的。
而人“所不拥有的”则要多得多。
知识、思想、表现力、人格感化力—不管哪个,每个人所拥有的是很有限的。
不能整天摆出一副乐观的样子,以为写作是有益于他人的,是提出问题的。
写作是把自己的不足之处展示给另}J人的行为。
因为如要隐藏,反而会更加暴露。
既有可以从字里行间读出自己内部充盈的东西的时候,另一方面,也有会让人看出自己内在有何缺欠、令读者感到不寒而栗的时候。
人过于频繁地用写作将自己的贫乏暴露于世。
还不仅仅是显露不足。
恰如其分地把所想内容表现到语言上也不是件容易事。
重现事实关系需要花费时间,某些地方便会出现偏离。
把它们文字化,又会出现一些偏离。
词语不够用的焦躁永远都会留下阴影而使心情无法平静。
但是,又想到,这也许是表达,并且是人的生存所背负着的宿命。
—人想要把自己思想传达给他人,于是创造了叫做语言的符号。
语言是符号,并不是思想本身。
选出的词语的队列,只不过对思想进行着反映而已。
正像实际的景象与照相机拍下的景象存有差异一样,实际的思想与通过语言对该思想的表达之间,常常存在微妙的错位。
圣贤者沉默寡言,既不写作也不讲话,一味地坚守沉默而受到世间的尊敬。
朝着墙壁九年多坚持沉默的达摩大师的面壁九年,归根到底是可以称之为好的例子的。
如果沉默的话,就可以避免丢脸。
即使这样想,把这种想法写到这里而埋下新的丢人的祸根的,就是人的特别是凡夫俗子的行为。
人的行为就在于一定要用语言来表达自己。
这是作为社会性生物的人的本能。
这样的话,就必须恰当地压抑踌躇和畏惧。
还必须摒弃随意性。
为了表达自己,为了让对方理解自己,是要努力地去坚持的。
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ぶんしょうを書かくことは苦くるしい。
しかしまた楽たのしい。
書かきたいテーマは脳のう中ちゅうにあって早はやく文字もじ化かされることを待まっている。
頭あたまの動はたらきの調子ちょうしのよいときには、目白押めじろおし[1] で待まっているといってもそれほど言いい過いすぎではない状態じょうたいになる。
しかし、ひるがえって[2] 思おもうに、文章ぶんしょうをかくことは恐おそろしい。
書かくなどということは、恐おそれるべく、慎つつしむ[3] べきことである。
人ひとは、自分じぶんの持もっているものを文章ぶんしょう化かする。
それによって他人たにんを益えきする[4] こともあれば、世よに刺激しげきを与あたえ、問題もんだいを投とうずる[5] こともできよう。
けれども、ひとが「持もっている」物ぶつは高たかが知しれている[6] 。
「持もっていない」もののほうがはるかに多おおいのだ。
知識ちしき、思想しそう、表現ひょうげん力りょく、人格じんかく的てき感化かんか力りょく――どれをとってみても、各人かくじんの持もっているものは知しれている。
他人たにんを益えきするだの、問題もんだいを投とうずるだのと、楽天的らくてんてき[7] に構かまえてばかりはいられない。
書かくことは、おのれの足たらざる[8] ところを人ひとに示しめす行為こういである。
隠かくすより現あらわれる。
内うちにあふれるものが行間ぎょうかん[9] に読よみ取とれることもある代かわりに、内うちに何なにが欠かけているかが見みえすいて、読者どくしゃの気持きもちを寒々さむざむ[10] とさせることもある。
人ひとは、あまりにしばしば、書かいて自己じこの貧困ひんこん[11] を世よにさらす。
足たらざるを露呈ろてい[12] するだけではない。
思おもいの内容ないようを過不足かふそく[13] なく言葉ことばに表あらわすこと、これがまた容易よういではない。
事実じじつ関係かんけいの再さい構成こうせい[14] に手間てまどる[15] 、どこかにすき間ま[16] が残のこる。
それを文字もじ化かする、またすき間まがある。
言葉ことば足たらざるもどかしさは、いつまでも尾おを引ひいて[17] こころが平たいらか[18] でない。
けれども、また思おもうに、これは、表現ひょうげんすること、更さらに人ひとが生いきることの背負せおっている宿命しゅくめい[19] というものかもしれない。
――人間にんげんは、自分じぶんの考かんがえを他者たしゃに伝つたえたくて、言語げんごという記号きごう(シンボル)を創つくりだした。
言語げんごは記号きごうであって、考かんがえそのものではない。
選えらび出だされた言葉ことばの列れつが、考かんがえを映うつしているに過すぎない。
ちょうど、実際じっさいの風景ふうけいと、カメラで写うつした風景ふうけいとに違ちがいがあるように、実際じっさいの考かんがえと、言語げんごによるその表現ひょうげんとの間あいだには、常つねに微妙びみょうなずれ[20] がある。
けんじゃ[1] は黙もだして[2] 語かたらない。
書かくことも話はなすこともせず、ひたすら沈黙ちんもく[3] を守まもって世間せけんの尊敬そんけいを受うけている。
壁かべに向むかって九きゅう年間ねんかんも沈黙ちんもくを続つづけた達磨だるま[4] 大師だいし[5] の面壁めんぺき[6] 九きゅう年ねんは、さしずめ[7] 、その好例こうれいといっていい。
黙だまっていれば、恥はずをかかずにすむ。
そうは思おもっても、そういう考かんがえをここにこうして書かいて、新あたらしい恥はじの種たねをまくのが、人間にんげんの、特とくに凡夫ぼんぷ[8] の業ごう[9] というものなのだ。
人間にんげんの業ごうは、言葉ことばを持もって自分じぶんを表現ひょうげんしないではいられないというところにある。
それが社会しゃかいの生物せいぶつとしての人間にんげんの本能ほんのうなのだ。
とするならば、ためらい[10] や恐おそれはほどほど[11] に抑おさえざるを得えない。
そして、甘あまえは捨すてなければならない。
自分じぶんを表現ひょうげんし、相手あいてに理解りかいしてもらうために、努力どりょくし続つづけようではないか。
たしかに、言葉ことばには記号きごうというものの持もつ不自由ふじゆうさがある。
けれども、自分じぶんの気持きもちを正ただしく相手あいてに伝つたえるためには、言葉ことばという手段しゅだんしかないという事実じじつを、もう一度いちど認識にんしき[12] し直なおさなければならない。
これが文章ぶんしょうを書かくという行為こういの出発しゅっぱつ点てん[13] だと私わたしは考かんがえている。
その上うえに立たって文章ぶんしょうを実際じっさいに書かいていくとき、私わたしが心掛こころがけて[14] いることが二ふたつある。
まず第だい一いちに、自分じぶんの持もっている考かんがえを、少すこしでも的確てきかくに表現ひょうげんしようということだ。
そのためには、まず自分じぶん自身じしんの考かんがえをつきつめて[15] いくことが大切たいせつだ。
自分じぶんでさえ「うまく言いえないんだけれど」ということを、他人たにんがどうして理解りかいしてくれるものか。
自分じぶんの考かんがえたことを言葉ことばという記号きごうに移うつしかえたとき、まとまっていなかった思考しこうがはじめてはっきりとした形かたちをとる。
言語げんごは記号きごうだから、思考しこうそのものとの間あいだにはずれがあるかもしれない。
だからこそより的確てきかくに言葉ことばを選えらばなくてはならない。
少すこしでも自分じぶんの心こころにぴったりくる言葉ことばを選えらぼうとするのは、ものを書かく者ものの責任せきにんだ。
そのための格闘かくとう[16] こそ、表現ひょうげん作業さぎょう[17] の中心ちゅうしんである。
心こころと言葉ことばとの距離きょりを、こうして無限むげんに小ちいさくしていくよう心掛こころがけたい。
だい二にに、他者たしゃに伝つたえるために表現ひょうげんしているという意識いしきを忘わすれないことだ。
とかく、自己じこを表現ひょうげんすることに熱中ねっちゅうしてしまうと、相手あいての存在そんざいを忘わすれがちになる。
けれども、表現ひょうげんというものは、それが相手あいてに伝つたわってはじめて完結かんけつ[1] するものだ。
「どんな人ひとたちに」「何なにを」伝つたえたいのかということを意識いしきすることは、ものを書かく場合ばあい、不可欠ふかけつの条件じょうけんだ。
これは、日常にちじょう生活せいかつの中なかで「相手あいてを意識いしきした」話はなし方かたをしていないと、うまくできるものではない。
ところが、若わかい人ひとたちは書かくことと同様どうよう、こういう話はなし方かたが苦手にがてなようだ。
それが難解なんかい[2] で独ひとりよがり[3] な表現ひょうげんとつながり、飛躍ひやく[4] ばかりでとりとめ[5] もない表現ひょうげんとつながる。
これでは、当人とうにん[6] は自分じぶんを表現ひょうげんしているつもりでも、独ひとり言ごと[7] を言いっているのと変かわりはない。
「言語げんご不信ふしん」などと言いう人ひとに限かぎって、ありきたり[8] の没ぼつ個性こせい[9] 的てきな表現ひょうげんに寄よりかかって、こと足たれり[10] とする傾向けいこうがある。
それでいて[11] 、他人たにんに理解りかいされないとこぼして[12] いるのは、甘あまえというものだ。
「弘法こうぼう[13] 筆ふでを選えらばず[14] 」というが、実際じっさいには、弘法大師こうぼうだいしは書体しょたい[15] によって筆ふでを選えらんだという。
表現ひょうげんも同おなじことで、相手あいてによって選えらぶ言葉ことばも違ちがってくる。
そのためには、ふだんから様様さまざまな文章ぶんしょうを読よみ味あじわって、言葉ことばに関かんする感覚かんかくを養やしなっておかなくてはならない。
さて、これまで述のべてきた心掛こころがけに基もとづいて、いよいよペン[1] をとるとなると、具体ぐたい的てきには、どんな点てんに注意ちゅういして文章ぶんしょうを書かいていったらいいだろう。
「文章ぶんしょうはレイアウト[2] である」――これが、私わたしの文章ぶんしょう観かんだ。
文章ぶんしょうをレイアウトする目的もくてきは、テーマ(主題しゅだい)をはっきりと浮うかび上あがらせる[3] ことにある。
そして、言げんいたいことどもの比重ひじゅう[4] や相互そうごの関係かんけいを視覚化しかくかすることにある。
この文章ぶんしょうによって、何なにを人ひとに伝つたえたいのか、どんなことを訴うったえたいのかということから、目めをそらせて[5] はいけない。
テーマが分裂ぶんれつ[6] していったり、テーマ以外いがいの要素ようそが入はいってきたりすると、レイアウトをすっきり[7] と仕上しあげる[8] ことができない。
レイアウトには、スペース[9] の感覚かんかくが大切たいせつだ。
文章ぶんしょうのレイアウトの場合ばあい、このスペースのは原稿げんこう用紙ようしの枚数まいすうにあたる。
それが五ご枚まいであるか、十じゅう枚まいであるか、スペースの大おおきさによって、レイアウトの方向ほうこうも定さだまる[10] 。
例たとえ、枚数まいすうが自由じゆうである場合ばあいでも、自分じぶんで内容ないように応おうじたすペースを設定せっていしておく必要ひつようがある。
無限むげん大だいの紙かみにレイアウトはできないのだから。
スペース(枚数まいすう)がはっきりしたら、それを視覚しかく的てきに捕とらえることを勧すすめたい。
一いち枚まいの紙かみの大おおきさを、これからレイアウトすべきスペースと考かんがえる。
そして、その紙かみを縦たての線せんで区切くぎって[11] いこう。
こうして、スペースの割わり振ふり[12] を考かんがえていくのだ。
読よみ手ての注意ちゅういを促うながし、興味きょうみを呼よび覚さます[13] 提示ていじ[14] の部分ぶぶん、それを受うけて、テーマを浮うき彫ぼり[15] にしていく展開てんかい[16] の部分ぶぶん、そしてそれらの全すべてが一いって点てんに凝縮ぎょうしゅく[17] する結論けつろんの部分ぶぶん。
そういう話はなしの組くみ立たて[18] を、こうやると、自分じぶんの目めで確たしかめることができる。
今いま思おもい返かえしてみると、中学生ちゅうがくせいのころから、一いち枚まいのざら紙がみ[19] に答案とうあんを書かく時とき、無意識むいしきのうちにこういうレイアウトを実行じっこうしていたようだ。