日语综合教程第六册第九课 课文与翻译

  1. 1、下载文档前请自行甄别文档内容的完整性,平台不提供额外的编辑、内容补充、找答案等附加服务。
  2. 2、"仅部分预览"的文档,不可在线预览部分如存在完整性等问题,可反馈申请退款(可完整预览的文档不适用该条件!)。
  3. 3、如文档侵犯您的权益,请联系客服反馈,我们会尽快为您处理(人工客服工作时间:9:00-18:30)。

日语综合教程第六册第九课香住から白兔海岸

(全新日中对照)从香住到白兔海岸

阿部昭(あべあきら1935-1989)

海を見て来ると言われて、わざわざ海を見に出かけるなんていうのは初めてだ。

子供の頃からざっと四十年、湘南の海辺で暮らしてきて、ことさらしげしげと海を眺めることはない。私が元来景色というものに鈍感な人間だからかもしれないが、相手が生みのような茫洋たる代物では、こっちがいくら力んでも仕方がない。そっとしておくほかはない。あれはお日様と同じようなもので、まともに鑑賞したりできるものじゃない、そこにちゃんとひかえていてくれれば安心していられるという、そういう性質のものだと思っている。

说起来看海的理由,专门为看海而出门还是第一次。

从孩子时算起,我在湘南海边大约住了四十年,所以不用特地屡次去看大海。也许我原本就是对风景之类的东西感觉迟钝的人,如果对象是大海这样广阔无边的巨无霸的话,我无论如何逞强也无济于事,还是暂且不惊动它为好。它与太阳同类,本不是可以正面欣赏的东西,如果将它牢牢实实地控制在那里,那才使人放心,我认为它就是如此之类性质的东西。

山の懐で育った人は、山に対して、やはり私と似たような気持ちを抱いているにちがいない。私のほうでは、山の奥深くに入ると、妙に落ち着かなくて、すぐにも逃げ帰りたくなるのであるが。

在大山的怀抱中长大的人,对大山一定也怀有与我相似的感觉吧。而当我进入到大山的深处时,就会离奇地变得焦躁不安,想马上逃回去。

そんなわけで、海も山も、景色のほうはもっぱら新婚さんやお年寄りの団体さんにお任せして、当方が面白いのは、

景色よりもやっぱり人間、

どんな名所よりもやっぱり東京、

と、日頃から田舎の人たちの反感を買うようなことを公言すてじゅた。

正因为这个缘故,大海也好,大山也好,景色优美的地方还是全都让新婚夫妇和老年人去吧,我感兴趣的是公开表白“景色再好也比不过人,名胜再美也比不过东京”这样平时常遭乡下人反感的话。

しかし、今度ばかりはそうもいっていられないらしい。なにがなんでも三日間は海を見て暮らすこと――それをやらないことには、帰るに帰れないという悲壮な旅のようである。

可是,似乎只有这一次不能这么说。无论如何,这三天得看着大海过日子,如果不这样,即使想要回去也回不去,就这样踏上了悲壮之旅。

実は私、日本海を見るのはこれが初めてだ。玄界灘をチョイと遊覧船みたいなもので走ったことがあるにはあるが、そんなのは見た部類には入るまい。それに先刻も言った通り、海辺育ちの心安さで、何処の海を見たって、

(あ、やってますなア)

ぐらいにしか思わない。あんなもの、三十秒以上眺めたことはない。

其实我看到日本海还是第一次,虽然曾在玄界滩乘坐有点像游览船似的船,跑是跑过一次,但这似乎不能归入“看”的范围。正如刚才所说,在海边抚育起来的安心感,甭管见了哪里的大海,也只不过想:“啊,就那么回事吧。”像那样看海,不会超过三十秒。

日本海だって、おおかたこんなものだろうとタカをくくっている。全然期待がない。見る前から、何も報告することがないんじゃないかと心配している。それで、途中で厭になって逃げて帰ってくるといけないからと、一計を案じて、タフな友人を一人連れて行くことにする。

日本海大概也就是那么回事吧,根本未将它放在眼里,所以完全不抱期待。在去看之前,就担心可能会没什么可报告的。然而,也不能因为半路感到厌烦逃回来,便心生一计,决定带上个健壮的朋友一起去。

昔、テレビ局で一緒に仕事をしていた頃からの永年の飲み友達で、気心の知れたM君というのに電話そて、「山陰へ二、三日、カニを食いに行く気はないかね?」と持ちかける。「君は何もしなくていいのだ。毎晩温泉に入って、酒を飲んでりゃあいいのだ。」

などとうまいことを言って、その実、彼をカメラマン兼レンタカー用のお抱え運転手として活用しようという悪い魂胆である。ワニザメをだます因幡の白兔みたいなものだ。

他是从前在电视台共事过的一位酒肉朋友,趣味相投的M君,我给他打电话提议说:“有没有兴趣到山阴去玩两三天,去吃螃蟹?”还对他说了如此之类的好话:“你什么也甭管,每晚泡温泉、吃螃蟹就行了。”而实际上,我是想将他作为摄影师和租贷的汽车司机来用的,看上去就像欺骗大鲨鱼的因幡小白兔。

かくして、無粋な男二人連れで出かけた。

策划好了,两个不懂风雅的男人便结伴出门了。

来て見れば、日本海は、荒海だった――

来了一看,日本海真是狂暴的海。

これでは俳句としても字あまり、結論としても馬鹿馬鹿しすぎて話にならないが、私として実感だから致し方ない。それも遠目に見ての印象ではない。二時間近く小船の上で揉みに揉まれて、いい加減うんざりしたあげくの正直な感想だ。

这句话,作为俳句字数过多,作为结论又显过于荒谬,可是作为我来说,确实是出自真实感觉,真是没办法。这不是从远处一望而得来的印象,而是将近两小时在小船上被挤来挤去,相当厌烦之后的老实话。

前日の午後京都を出て、山陰本線のジーゼルカーと北上、まだうっすらと、あるいは斑に雪を残した但馬の山あいを縫って行くと、城之崎あたりで日が暮れかかる。それからト

ンネルを抜けて、また暫く行ったところでようやく日本海が姿を見せる。地図でいえば竹野浜のあたり、山陰海岸国立公園のただなかである。

前一天午后,从京都出发,乘坐山阴本线的柴油机火车哐当哐当地北上,从斑斑点点的残雪隐约可见的但马山谷中穿行而过,到了城崎一带已临近天黑了。然后穿过涵洞,再走一会儿终于见到了日本海的风姿。如从地图上来说,是在竹南滨的附近,山阴海岸公园的正中央。

私としては初対面だが、相手の顔まではよく分からないといったところだ。

初春の夕闇の中に、あるかなきかの幽かなたたずまいを見せて、ひっそりと息づいているかのごとくである。さしあたっては、

(なるほどね)

と言うだけにとどめ、詳しくは明朝ということにして、浜坂で下車、その晩は湯村の温泉にとっぷり浸かって寝てしまう。陸から海を見るばかりが能じゃないから、あいたは浜坂から香住まで遊覧船に乗って、海中公園を探勝してやろうという寸法だ。

对我来说是初次见面,也就是说连对方的面孔也看不太清楚。

在初春的暮色之中,看到它那若有若无、朦朦胧胧的样子,宛如静静地在叹息。眼下,只能留下一句“果真如此啊”,详细的要到明天早上再说。在滨坂下车,当天晚上在汤村的温泉里好好泡一泡再去睡觉。光从陆上看看海还不算能耐,计划明天乘游览船从滨坂到香住,去海中公园去探寻游览胜地。

朝起きてみると、空は予想に反して上天気、遊覧船もちょうど本日――三月十五日――から運航を開始する由で、朝風呂でつるつるする顔を撫でながら、タクシーで船着場に馳せつける。

早上起来一看,天气与预想的相反,是个好天,据说游览船也是从今天,即从3月15日开始通航,我一边摸着早上泡过澡后变得光光如也的脸,一边乘出租车驶向船码头。

浜坂港はどこにでもありそうな山陰の漁港だが、まるで電気屋の店先みたいに沢山電球をぶらさげた漁港がずうらりと並んでいるのは、あれがイか釣り舟か。

滨坂港似乎是一个似乎到处都看得到的山阴的渔港,一字儿排开的渔船挂满了灯泡,看上去就像是电气商店似的,那是钓墨鱼的船吧?

足もとにひたひたと寄せる水に、朝の陽がさして、大勢のいい藻が揺れているのが透いて見える。何処の海を見ても、このごろはまず水を透かしてみる。きれいか、濁っているか。昔の人はそんなことは考えもしなかったろうと思う。海の水はどこだろうと澄んでいるのが当り前だったろう。

在朝阳的照射下,透过哗哗涌向脚边的海水中,可见长势良好的藻类在摇曳。不管在哪里看海,近来首先都要透过海水来看它是干净的还是浑浊的。我想过去的人恐怕不会想到这样的事情吧,那时海水不论在哪里都是纯净的,那是理所当然的。

それともこれはわれわれが汚らわしい海しか知らなくなって久しいからで、この土地の人

相关文档
最新文档