日本の儒学
江户时代的日本儒学

江户时代的日本儒学公元1603年,日本三河(爱知县)小大名出身的德川家康出任征夷大将军,在江户(今东京)建立幕府,到1868年为止日本进入了长达265年的江户时代。
而早在公元5世纪,中国儒学就传入了日本。
据成书于公元720年的日本第一部正史《日本书纪》记载,应神天皇十五年(公元405年)百济博士王仁应邀到达日本,带去十卷《论语》和一卷《千字文》,712年的《古事记》也有类似的记载,这是中国儒学传入日本的最早记录。
六世纪后半期,以部民制为特征的奴隶制行将崩溃,即将诞生的封建社会在意识形态上需要理论指导,儒学在日本进一步传播,并开始浸入社会意识形态领域,被视为儒家五种传统美德的仁慈、正义、礼仪、学识、信义,自然成为治国治民的利器。
此后,中国儒学在日本逐渐传播,对其政治、法律、文学、哲学、宗教及艺术等产生了广泛而深刻的影响,加速了日本的文明进程。
江户时期,儒学出现了史上罕见的繁荣兴旺。
众所周知,由于德川家康的江户幕府开府,日本社会基本上逐渐形成了前所未有的统一体,江户时代是日本封建社会的成熟期和崩溃期。
德川家族统治的三百多年间是日本历史,也是世界历史上罕见的和平时期。
幕府体制日益巩固,经济稳定发展,社会日趋安定,使日本有可能从容地对自古以来从中国传入的文化进行反刍、消化和吸收,并继续不断大量地吸收近期及明清以来的文化成果。
从某种意义上来说,江户时代是有史以来日本文化同中国最密切的时期,同时也是日本文化史的巅峰时期。
这一历史时期的文化特征之一,就是儒学的勃兴。
中国的儒学虽在遥远的古代就传入了日本,并一直潜移默化地影响着日本人的思维,但它始终未能完成一种蜕变,没有真正融入日本文化之中。
江户时代的到来带来了一种机遇,使儒学真正获得了实现日本化的条件。
围绕朱子学派为主流的宋代理学的争论,百家争鸣,各种学术思想剧烈碰撞。
其结果,儒学在传入日本之后,终于在江户时代形成了气候,也带动了江户文化的繁荣。
因为它不仅有识文断字、吟风弄月的情调,更多的是“修身、齐家、治国、平天下”的具体原则,难怪有人把日本看作是儒教徒的国度。
儒学在日本的发展

第一节儒家经典初传日本中国的儒家经典是经朝鲜传入日本的。
成书于公元720年的日本第一部正史《日本书纪》记载:在应神天皇十五年八月,朝鲜半岛的百济国王派遣一个名为阿直歧的人送来两匹良马。
阿直歧能读中国经典,于是太子菟道稚郎子便拜他为师。
应神天皇问阿直歧:“还有没有比你更高明的博士?”阿直歧回答说:“有个叫王仁的,很高明。
”应神天皇随即派人去百济邀请王仁。
应神天皇十六年二月,王仁来日。
太子又拜王仁为师学习中国典籍。
成书于公元712年的日本第一部历史和文学著作《古事记》也有类似记载,还更加具体地说王仁带来了《论语》十卷和《千字文》一卷。
这是有关中国儒家经典和汉字传入日本的最早记载。
经学者考证,应神天皇十六年相当于公元405年,也就是说中国儒学传入日本之始为5世纪初。
《日本书纪》中还记载:应神天皇死后,菟道稚郎子本应继位,但他推让皇位于异母兄大鹪鹩,理由是大鹪鹩仁孝之名远闻天下,而且年龄大,应即位天皇。
大鹪鹩则以父命难违为由,固辞不就。
两人互相推让,以致造成三年空位。
最后,菟道稚郎子自杀,以示辞让诚意。
这被学者认为是仿效《论语》中所记载的中国周朝祖先泰伯与仲雍出走、辞让王位于幼弟季历的故事。
另外,被认为写于5世纪并保存至今的日本文章中也有浓厚的儒家味道的文字,这也是中国儒家思想在5世纪时已传入日本的明证。
日本人系统学习中国儒家典籍及其思想,则是晚至6世纪的事了。
据《日本书纪》记载,513年,百济国王派遣了一位名叫段杨尔的五经博士来日本,之后以轮换的办法向日本派遣五经博士。
五经博士是中国汉武帝独尊儒术之后在朝廷中设置的学官,专掌《诗》、《书》、《礼》、《易》、《春秋》五经的传授。
后来百济也仿照汉朝建立了五经博士制度。
中国的儒家经典也通过百济的五经博士传到了日本。
但中国儒学在传入日本之初,影响并不广泛,与广大民众尚无接触。
这是由于日本当时刚刚踏入文明社会不久,仍处于原始宗教文化占统治地位的阶段,因此,对于从中国传来的新鲜的生活或生产器具及进步的生产技术接受得比较快,而对先进文化的精神成果接受则较为缓慢。
论日本儒学对日本文化的影响

论日本儒学对日本文化的影响一、日本儒学对日本文化的影响日本儒学对日本文化的影响是非常广泛而深刻的。
可以搜求到手的研究著作和史料中尽可能多地整理出有关日本儒学发展及其影响的重要史实,把儒学置于日本文化的大背景下,将儒学的发展与日本文化的发展联系起来,成功地运用了历史与逻辑相统一的方法来分析日本的思想文化。
《文化》一书中的下篇,分别从政治、法律、道德、宗教、文学、史学及当代日本社会七个方面,具体地分析研究了儒家思想在各个文化领域中的影响。
这种横向的研究给人以广阔的视野,而在每一个具体的领域中,又再现了其发展过程受儒家思想影响的历史脉络,给人以纵深的历史感。
例如在政治领域,从大化革新与“周孔之教”、“建武中兴”与朱子学的关系,一直谈到“尊王攘夷”思想与明治维新。
在法律方面,从《养老律令》和“以礼入法”,《贞永式目》和大名家法,一直谈到明治民法中的家族制度等等。
这样纵横交织,形成了一幅广阔而深厚的历史文化图景。
透过翔实的历史事实陈述,日本文化的特点便具体而豁然了。
这里我们想介绍王家骅对日本神道这一原生形态的民族宗教与儒学的关系的论述,借以理解日本文化的特点。
王家骅在《文化》一书中,论述了日本神道教义从无到有的发展,及其如何受儒佛道等各种思想的影响与怎样排除这些思想影响欲恢复其本来面目,直至与国家权力结合。
他将这一过程分为从原始神道到国家神道五个发展时期,并认为在每一个发展时期都可以找到当时儒学发展形态的影响。
关于日本原始神道,他是通过剖析《古事记》中有关宇宙生成和演变的神话与儒家典籍《淮南子精神训》和《周易系辞》等的关系,来说明“无论是其神学思想还是其宗教祭仪活动,都已受到中国儒家思想的影响”。
到平安时代中期,以佛教为根本、神道为附庸的“本地垂迹”说,则是神佛调和理论化的最初尝试。
到室町时代,神佛调和理论又与儒佛不二思潮互相汇合,发展为各种各样的神、儒、佛一致说,无论是哪种一致说,实际上都是由外来思想所准备与培植的,尤其是受到宋学的影响,这并不表明以日本固有之道相标榜的神道出现了什么具有思想独创性的新发展。
江户时代日本儒学论

江户时代日本儒学论
作为一种传统的日本儒学,江户时代儒学也被称为“江户学”,它是日本传统儒学的一种发展。
江户时代的儒学研究主要集中在儒家的经典著作,如《论语》、《礼记》、《孟子》、《中庸》等,以及儒家传统的思想,如仁义礼智信等。
江户时代儒学的研究主要以“实践”为中心,以实践为出发点,以“实践”为
核心,以“实践”为最终目标。
因此,江户时代儒学的研究被称为“实践儒学”。
江户时代儒学的研究论文可以从以下几个方面进行:
一、实践儒学的理论基础。
实践儒学的理论基础包括儒家的传统思想,如仁义礼智信等,以及儒家的经典著作,如《论语》、《礼记》、《孟子》、《中庸》等。
本文可以从儒家传统思想和经典著作出发,探讨实践儒学的理论基础。
二、实践儒学的思想实践。
实践儒学的思想实践是江户时代儒学的核心,也是江户时代儒学的重要内容。
本文可以从实践儒学的思想实践出发,探讨实践儒学的思想实践。
三、实践儒学的社会实践。
实践儒学的社会实践是江户时代儒学的重要内容,也是江户时代儒学的重要内容。
本文可以从实践儒学的社会实践出发,探讨实践儒学的社会实践。
日本儒学的本土化与民族化

日本儒学的本土化与民族化梁宗华摘要儒学自始传日本至12世纪以前,所传入的均是汉唐时期注释的儒家经典。
适应于建立、健全封建中央集权制度的需要,儒学主要是作为先进的政治理念在日本封建化过程中起到了积极作用;进入幕府时代以后,儒学的传播内容发生了大的转向,宋代理学取代了汉唐儒学输入日本,德川幕府时代儒学摆脱了对禅宗的从属,独立发展,进入在日本的鼎盛期,儒学研究空前高涨,创出了日本儒学独立的理论体系,形成朱子学派、阳明学派、古学派等重要学术派别,这些学派开展学术研究,从事教育活动,为儒学的本土化、民族化做出了自己独特的贡献。
关键词儒学日本传播民族化作者:梁宗华,女,山东苍山人,1963年生,山东师范大学齐鲁文化研究中心教授。
中国儒学经由朝鲜的百济传入日本。
与朝鲜、越南相比,儒学传入日本的历史最短,但一经传入,就对日本社会生活诸多层面产生了广泛影响,不但对日本社会历史进程发生了重要作用,而且创出了比较完善的思想理论体系,形成独具特色的日本儒学,从而构成了日本传统文化的重要内容。
在长期居于国家意识形态核心地位的过程中,儒学以官方力倡、民间普及等各种形式渗入日本社会机体之中,成为日本历史文化传统深厚的积淀。
以中国儒学为母体的日本儒学,在日本独特的社会、历史文化土壤中深深地扎下根,成为东方儒学重要的组成部分。
一儒学在日本的传播与发展,在幕府时代以前主要是以五经为核心内容的汉唐儒学,此期对日本社会最重要的影响是促成了大化革新在相当程度上贯穿了儒家的政治伦理精神。
儒学初传日本,有徐福携《诗》、《书》东渡的传说,但确切的史实记载是在应神天皇时。
据日本史书《古事记》载,百济博士王仁于应神天皇16年(285年)赴日本,携《论语》献给朝廷,并担任皇太子菟道稚郎子的老师,教授《论语》。
这是儒学官方传播的开始,以儒家经典为内容的宫廷教育亦自此始。
儒学的政治理念及道德观念很快被日本上层社会所接受,应神天皇死后,受儒家禅让及仁孝思想影响,皇太子与其兄大鹪鹩互让空位近三年,最终自杀使以仁孝闻名的兄长大鹪鹩即位,是为仁德天皇。
日本儒学的特色与日本文化

人类的认识固然不能局限于闻见,不能满足于感觉经验,感性知识有待于上升为理性认识,但是,感性认识毕竟是理性认识的前提。从这一意义上说,日本大多数儒学者较为重视感觉经验,就使他们比中国的儒学者更容易面向自然界,更容易接受西万自然科学,更容易走上近代的科学认识的道路。不过这离在重视经验事实的基础上产生近代实验科学的方法,还有一段路程。这需要运用实验手段,在人工控制下进行观察,掌握数据,进而运用理论思维的方法提出假设,建立数学公式,进行严密推导、论证、再设计实验,如此循环往复。然而由于前近代的日本人比较拙于抽象思维,与之相关,又象中国人一样比较地缺少发展近代科学必不可少的形式逻辑传统,因而,日本的重视感觉经验的儒学者最终未能进入近代实验科学的殿堂。
二
日本文化的“直观”性格或“即物主义”特色,也表现于日本儒学的认识论中。较之中国儒学,日本儒学的认识论更为重视感觉经验,注重事实、现象、经验和实证。
在中国儒学中,“知”有知识、认识的意思,还指道德意识。孔子说:“生而知之者上也,学而知之者次也。”(《论语·季氏》)“生而知之”的所“知”显然是一种天赋的、先验的道德意识,与感性认识和理性认识都无关。而“学而知之”的“知”,照孔子的说法“多见而识之,知之次也。”(《论语·述而》)似乎是感觉经验即感性认识。孔子还说:“学而不思则罔。”(《论语·卫灵公》)这表明孔子认识到来自“闻见”的感性知识的局限性,认为还需要“思”即理性认识。不过比较起来,孔子还是认为“生而知之者上也”,即认为那种天赋与先验的道德意识更为珍贵。
孟子发展了孔子“生而知之”的唯心主义认识论,认为“不虑而知”的良知才是真知。他还说:“耳目之官不思,而蔽于物”,(《孟子·告子上》)认为得自于耳目感觉的感性认识是不可靠的。与孟子不同,荀子继承了孔子“学而知之”的观点,说:“征知则缘耳知声可也,缘目而知形可也。”(《荀子·正名》)认为“征知”必须“缘耳目”,即思维必须以感官活动为先决条件。遗憾的是荀子的认识论没有得到充分发展,唯有汉代王充是个例外。
日本近世儒学与政治儒学研究四篇

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弟於仁斋的学风影响要大於朱子 。1 8世纪的太宰春台认为贝原损轩由信奉 程朱到晚年质疑程朱 。 这是损轩
的 巨大 进 步 与 转 折 , 损 轩 只怀 疑 程 朱 学 不 合 圣 学 但 未 知 程 朱 学 正 是 通 过 孟 子 之 变 异 而 发 展 过 来 ; 台敬 但 春
佩 损轩 的学 识 但 他 认 为 他 自己排 程 朱 、 孔 学 的 努 力是 损 轩 所 不 可 及 的 。 复
日本近世儒学与政治儒学研究 四篇
林桂榛
【 摘
刘 春 阳 译
要】 信夫清三郎认为 中国在亚 洲创建 了特殊的国际秩序 , 以内“ 外 “ ” 华” 夷 的朝贡制度或宗藩体
系 构 筑 了 “ 国 的世 界 秩 序 ”1 中 ;7世 纪 后 半 叶 的 山 鹿 素 行 开 始 脱 离 中国 中 心 主 义转 向 日本 中心 主 义 ,华 夷 ” “
中国儒学在日本的发展

中国儒学在日本的发展中日作为一衣带水的邻国,自古以来,日本在思想文化、政治制度等方面都受到了中国的诸多影响。
其中,儒学作为古代中国封建社会长期占有统治地位的官方思想,在传入日本后,于不同历史时期也在日本社会发挥着诸多作用。
中国儒学在日本与日本的本土文化相结合,在一定时期内充当了推动社会进程的重要思想武器。
标签:中国儒学;日本化根据公元前720年成书的日本的第一部正史《日本书纪》中记载的传说,中国儒学经典在那时经朝鲜半岛传入了日本。
儒家学派作为中国封建社会几千年来的正统统治思想,随着历朝代统治者的需要发生变化,中国的儒学思想也在不断应时而变以适应统治阶级的需要。
同时,传入日本的儒学文化,也被日本人根据自己国家的具体情况有所改造地利用,发展成了具有日本特色的日本儒学,并在日本多个重大历史时期发挥着作为思想武器的重要作用。
一、日本早期儒学(5世纪至平安时代末期)中国儒学传入日本的记实最早可见于成书于712年的《古事记》,并且在成书于公元720年的日本第一部正史《日本书纪》中有关于百济博士王仁于应神天皇15年应邀前去日本传授儒学的记录,王仁此行带去了10卷《论语》和一卷《千字文》,对日本儒学的初步发展有着重大影响。
到七世纪,从圣德太子进行推古朝改革后,到孝德天皇进行“大化改新”,再到大宝元年,制定《大宝律令》,这些都是日本早期儒学治国治民的思想被日本政治所采用的标志。
圣德太子制订的“冠位十二阶”便是参照了儒学传统思想中“德、仁、礼、信、义、智”的观念而由此创造出的。
后颁布的《十七条宪法》中,将儒家“王土王民”的思想贯穿其中。
提出“率土兆民,以王为主”的观念,提出了建立集权于天皇的中央集权制度的需要。
虽然在当时这一诉求并没得到满足,但在400年后的“大化革新”中,中大兄皇子发动宫廷政变推翻了苏我氏旧势力,新上台的孝德天皇提出了自己代行天命的观点,这表现了中国儒家的天命观,这一观念也成为了日本古代国家天皇制集权国家权威性的根本政治理念。
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日本の儒学日本の儒学は、古いから中国の儒学思想を取り入れたのです。
日本伝来から平安時代末期までの儒学を、日本の早期儒学と言わられます。
日本に伝来した年代と経緯については、定説はないけど、『日本書紀』と『古事記』の記録によれば、応神天皇十六年、西暦285年に、朝鮮の百済の王仁が『論語』と『千字文』を持って日本へ伝来したと記されています。
六世紀に百済からの五経博士が継続的に交替しながら、日本へ渡って、中国の原始儒学を伝えました。
聖徳太子は、中国の儒学思想を日本の政治制度に取り入れた最初の人物です。
聖徳太子が、「憲法十七条」を制定した時に、中国の法家、儒家、墨家及び仏教などいろいろな思想を取り入れたが、儒学思想がもっとも重要な比重を占め、儒学思想が基調となっていると言えるでしょう。
聖徳太子は、また『冠位十二階』を徳、仁、義、礼、智、信(各大小二階を分けている)で命名し、儒学の社会政治思想で政権を強めようとしました。
聖徳太子も、留学生を派遣して、中国の儒学の典籍を勉強しました。
その後、大化の改新を進め、日本で学校を設置して、大学寮などで儒学を中心として教育を行いました。
(1)中国の儒学は、政治にも道徳にも、影響が与えていました。
日本の早期儒学は、政治理念として日本の政治だけに影響を与え、当時の日本人の道徳の実際にはほとんど影響に与えていませんでした。
(2)中国の儒学は、包容性を強く持っており、外に向かって排他性をもっております。
ところが、日本の早期儒学は明らかに共存性を強く占めて、いろいろな論争は終止符を打たれました。
(3)日本の早期儒学は、哲学としての意義が欠けていたと言えます。
中国儒学の発展変化は、日本儒学の発展に影響を及ぼし、鎌倉時代(1184-1333)に、新儒学が日本に伝来しました。
大陸の宋学が、禅学とともに日本伝来されて、次第に広がり、日本の儒学に革新の気運を与えました。
鎌倉、室町時代を通して、宋学はほとんど五山禅僧の手によって、伝承されていました。
大陸の宋学と大きく違っていました。
朱子学側からは、一貫して排仏論が出張されました。
しかし、大陸の禅僧は儒仏一致を力説しました。
日本の禅僧たちは、大陸の禅宗の影響を受けて、儒仏一致の見地から宋学を講じました。
しかし、日本の禅林の宋学提唱は、もとより宋学そのものの普及を目的とする者ではなく、それは宋学を「助道の一つ」と見て結局禅法を揚げる方便にはかならない。
彼らは、ただ儒学と仏教、特に宋学と禅宗の形式の関係に注目して、両者の交渉、融合を論じついに宋学をその本来の姿において、把握するまでに達しませんでした。
当時の宋学は、仏教の禅宗の従属物として存在したのでしょう。
鎌倉時代、禅僧の間に唱えられた宋学は、鎌倉時代の末期から、その影響が宮廷の天皇、公卿、博士家に波及しました。
鎌倉時代では、儒学の新注派は禅林の宋学で、古注派は清原などの諸博士家でした。
江戸時代になって、日本の儒学は禅宗の従属としての状態から抜け出し、独立を始め、いよいよ全盛期を迎えるようになった。
藤原惺窩が先週の世界を脱し、還俗して儒学に転身したことは、日本の儒学の独立の象徴的な出来事と言えよう。
惺窩は、朱子のように、利を形而上的なもの、万事万物か生まれる根源だ見なしたのです。
惺窩は多くの儒学を育成しました。
林羅山はその中の一人でした。
日本朱子学派の真の開祖は、林羅山でした。
林羅山は、朱子の思想を修正し、概念内容を置換して、朱子学の日本的な特色を現しています。
例えば、忠と孝の関係について言えば、中国の伝統的な見方は、「忠」より「孝」を重視するものだが、林羅山は、「孝」より「忠」を重視します。
林羅山以降の日本朱子学派の全体から見れば、それは二つの方向へと分化したと言えます。
一つは、朱子学の唯心論の側面を強化し、朱子学の封建論理学を強調して、「窮理」より「居敬」を重視したことです。
山崎闇斎はその代表人物です。
彼は朱子学と神道との結合に力お注いで、新しい神道流派、「垂加神道」を樹立しました。
また、山崎闇斎は朱子学の大義名分論を強調しました。
崎門の学統は連綿として、明治以降まで継承され、その尊王思想神道思想は天皇制国家を支える理念として国粋主義者によって誉めそやされ、太平洋戦争の時期に、それは最高潮に達したのです。
実は、崎門学派こそ最も典型的な日本朱子学派の停滞と固陋の側面を表したのです。
もう一つは、朱子学の内包する唯物論の要素を強化し、朱子学の認識論の合理部分を強調して、「居敬」より「窮理」を重んじて、「民生日用の学」ないし科学技術に興味を示したことです。
その代表人物は、貝原益軒があります。
かれの「窮理」は、事物の法則性を客観性に探究するという方向に向かっていました。
また、益軒は窮理において、合理性と客観性に徹てしようとし、学問が博学を旨とすることを主張しました。
貝原益軒の博学的な学風はまさに崎門学派の学風と対照的なものです。
一般的には中江藤樹(1608-1648)が日本陽明学の祖だと言われるが、実は室町時代において、日本人はすでに王陽明に接触したことがあります。
江戸時代、日本には、中江藤樹を始め、その門人熊沢蕃山及び三輪執斎、佐藤一斎、大塩中斎らによって、代表される王陽明の思想に共鳴する思想の傾向は確かに存在していたが、中国の陽明学派と違って、これらの学者は全面的に王陽明の思想を受容したのではなかったし、中断されることなくはっきりした伝授関係を持つ学派として形成されませんでした。
江戸時代に日本の陽明学は容易に発展できなかったと言えるでしょう。
中江藤樹は、全面的に陽明の思想に影響されて自己の思想形成したのではなく、陽明学への方向を取りながらも自分の思想の特色を持っていたと言える。
中江藤樹の門人の中で、最も優れた者は、熊沢蕃山と淵岡山です。
蕃山を中心とした人々を事功派と呼び、岡山一派を存養派あるいわ省察派などと称し、前者は必ずしも師説に盲従せず、独自の見識を立てたのに反して、後者は藤樹の思想を忠実に継承しました。
熊沢蕃山が陽明学から学ぼうとする点は、「自反慎独」「心を内に向はしむ」、すなわちいわゆる「進学」に共通の心の内に契機を重んずる点でした。
実は蕃山は朱子学と陽明学との中間的立場でありながらも、幕府の圧迫を被って、困厄の中に世を去らなければなりません。
三輪執斎は、日本陽明学の中興の祖と言われているが、彼の主な業績は1721年における「伝習録」の翻刻に過ぎない。
三輪執斎以降、18世紀末、19世紀初期から、日本の陽明学は再び復興の勢いを表すようになりました。
その代表的な人物は、佐藤一斎は、内心では陽明学を奉じながら、表では朱子学を講じなければならず、「陽朱陰王」と評されました。
彼の思想の影響力は、他の陽明学者より大きいでした。
幕末の思想界に行動主義的な陽明学が広く流行したのは、中央学界にあった一斎の促進的な役割が大きかったからです。
ともかく、日本の陽明学は、時に個人的に深く心酔するものが現れても、社会的に持続してその思想的な影響を及ぼすことはほとんどなく、学派を形成したこともありません。
したがって、日本の陽明学はただ一種の思想的な傾向として存在していたと言えるでしょう。
(1)反体制性:日本の陽明学者は、その全体から見れば、中江藤樹から大塩中斎、吉田松陰まで、彼らの思想は多かれ少なかれ反体制的な批判精神を内包しています。
(2)行動性:日本人に対する陽明学の影響は、内面性への関心の深まりのみではなく、社会的な行動性を強めることにあります。
幕末の陽明学者大塩中斎及び維新期の吉田松陰らは、この行動性の実践者でした。
山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠は日本古学派の三人の代表者です。
彼らの共通点は、復古を唱えました。
ただし、彼らの復古の要求は、決して簡単に中国の伝統的な孔孟の学(原始儒学)に復帰することではなく、古典を持って日本の朱子学を否定して、思想の自由を求め、古典から当代の社会に実践理論として役立つ生活の知恵を求めたのです。
山鹿素行(1622-1685)は日本古学の先駆者と言われます。
彼にの日本思想史上の評価は以下の三つです。
(1)日本古学の立役者(2)日本主義の鼓吹者(3)武士道の提唱者山鹿素行は古学思想の先駆者としてよりも、儒学的な武士道の提唱者として大きな歴史的な意義を持っていると言えよう。
彼は、「死の覚悟」の武士道から「道の覚悟」の武士道への転換を完成した思想家です。
伊藤仁斎(1627-1705)は文献学の方法で朱子学派のよりどころである『大学』と『中庸』の正統性を否定し、『論語』を「最上至極宇宙第一の書」として推尊して、『孟子』を『論語』の不可欠の柱脚としました。
彼は、人の情欲を敵とする朱子と王陽明の「窮天理、滅人欲」論を批判しました。
荻生徂徠(1666-1728)は宋の文学から脱却して「古文辞」を提唱しました。
16世紀の中国の「古文辞」運動は、強烈な古典主義の文学の主張でした。
徂徠はこの主張を儒学古典の解釈に取り入れ、儒学に応用しました。
日本思想史上における徂徠学の位置については日本学者の評価は相当に高いです。
彼の思想は、政治と道徳、公的領域と私的領域との連続性を断ち切って、政治、公的領域の優位を思想的に確立しながら、私的、内面的世界の自立性をも承認して、近代的精神としての資格をもちます。
徂徠学は、近代的制度観への道を切り開いたとされます。
四、後期の儒学(明治維新から今まで)明治維新の後、文明開化が唱えられ、仏教、神道、儒学などの封建文化が批判され、一時、儒学が零落されました。
しかし、自由民権運動の迅速な発展に恐怖を感じた明治政府は再び儒学思想を復活しました。
1890年に、『教育勅語』が公布され、その公布によって、儒学道徳を骨幹とする国民道徳方針を確立しました。
1945年8月の日本の敗戦まで、『教育勅語』は日本の最も基本的な経典としての役割を果たしました。
日本の軍国主義の膨張の過程では、儒学が悪用されました。
儒学は日本国内では、その徳目を重要な内容とした「武士道」が、まず、「軍人精神」として新しい形で再生され、さらに、国民道徳として宣揚されました。
そして、国外に向けては、「王道楽土」の建設というスローガンで、中国ないしアジア諸国への侵略のイデオロギー用具として用いられたのです。
戦後になって、戦前の儒学道徳教育を学校の道徳ないし国民教化の根本方針とした政策を放棄しました。
現代の日本では、思想体系としての儒学は、ただ人文科学研究対象として、中国思想史あるいは日本思想史の著作が論述し評価する内容のみになっています。
しかし、それは日本の現代生活で儒学が影響力を全部失ったことを意味しません。